一塁側ベンチにいた長嶋茂雄監督が、こちらに向かって手招きを始めた。
巨人担当だった2001年(平13)の宮崎キャンプ中。私は取材エリアの三塁側ベンチにいた。誰かを呼んでいるのは分かったが、まさか自分とは思わず、知らん顔をしていた。
すると監督付きの小俣進広報が「飯島!」と私の名を呼び、監督と一緒に手招きをする。
私は慌てて一塁側ベンチへ走った。本来は報道陣が入ってはいけないエリアなのだが、長嶋監督に呼ばれれば飛んでいくしかなかった。
走りながら理由を考えたが思い当たらない。監督番は先輩記者で、私は清原和博、松井秀喜、高橋由伸といった主力選手を取材する役回りだった。もちろん監督の取材もしていたが、もし記事へのクレームならば先輩が呼ばれるはずだ…そんなことを考えていた。
しかし、長嶋監督は笑顔で迎えてくれた。
「スタッフ会議の記事を読んだぞ。おもしろかったじゃないか。あれ、調べたのか? 会見では出ていない話だから、コーチかスタッフの誰かがもらしたんだろう」
「いや、誰に聞いたかは言わなくていいぞ。記者だから取材して聞き出すのは当たり前だからな。事実だし、チームのマイナスになることでもない」
「話を聞いただけじゃなく、調べたところがいい。だって、孫氏の兵法のところは、オレが会議で話した内容より詳しく書いてあったからな。おもしろかった。それが言いたくて呼んだんだ」
キャンプ前のスタッフ会議で、長嶋監督は「孫氏の兵法」を引用した上で「フロント、首脳陣、選手。球団が一体となって連覇に挑もう」と目標を掲げていた。
報道陣は入れない会議内の話であり、私は出席した1人を取材して内容を把握した。加えて「孫氏の兵法」を調べて、詳しく書いたのだった。

突然、長嶋監督から記事をほめられ、私は舞い上がってしまった。何と答えていいのか分からず「監督、新聞を読んでいるのですか?」と、ピント外れな言葉を口にした。
「読んでいるぞ。全部読んでいる。だから、オレの采配を批判しても、ちゃんと読んでいるからな。へへへへへ」
ここで小俣広報が「監督、飯島はあの難しいキヨ(清原)にも食らいついて取材していますよ」と合いの手を入れてくれた。
「そうか。自主トレも見た? どんな練習をしていた? 今年の清原はどうだ? いい? そうか。清原はいい表情をしている。怪我がなければ大丈夫だろう。怖いのは怪我だけだ。清原にはやってもらわなくっちゃな」
5、6分の会話が終わった後、しばらく経って冷静になると、もしかすると最後の言葉を言いたくて呼んだのかもしれないと思った。
つまり、清原がどんな練習をして、どのような状態にあるのか。清原が肉体改造として、ウエートトレーニングを中心とした練習に取り組んでいたこともあり、気になっていたのかもしれない。
何しろ、当時の清原はチームメートも引き連れず単独で自主トレを行い、取材も受けていなかった。唯一、私だけが練習する場面を見ていた。長嶋監督はそんな情報を得ていたのだろう。
そして、私の口から「監督が気にしていました。期待していました」と、清原の耳に入ることも計算していたのではないか。そんなことを思って、すぐに清原に連絡した覚えがある。

2004年(平16)にはアテネ五輪で長嶋番を務める予定だった。当時、私はニューヨークで松井秀喜を取材していたのだが、先輩たちが管理職へ昇進していき、長嶋監督を取材した経験のある現場記者が私しかいなかったからだ。
長嶋監督が指揮を執るオリンピックを取材する。心躍らせていたのだが、この年の3月に脳梗塞に倒れ、実現には至らなかった。
ただ、アテネに向かう選手たちに贈った「君たちは野球の伝道師たれ」というメッセージが、現在の侍ジャパンのスピリットにつながっていると思っている。初めてオールプロで臨む五輪も、長嶋監督が音頭を取らなければ実現しなかっただろう。
ミスタープロ野球。
野球を愛する1人として、心から「ありがとうございました」と申し上げたい。
合掌。
◆飯島智則(いいじま・とものり)1969年(昭44)8月6日、横浜市出身。93年日刊スポーツに入社し、東北地区のスポーツ全般を取材した後、東京本社野球部で98年ベイスターズの優勝、長嶋茂雄監督時代の巨人を担当し00年ONシリーズなどを取材。03年からは渡米してヤンキース松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当で球界問題を担当した。野球デスク、広告事業部、特別編集委員などを歴任し、24年限りで退社。現在は大学教員とスポーツライターの二刀流で活動している。
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