スポーツライターと大学教員の二刀流で活動する飯島智則氏が、MOOSE STADIUMで新連載「言葉のスポーツ」をスタートします。昨年までスポーツ新聞の記者としてプロ野球、大リーグなどを取材し、近年はジュニアスポーツやセカンドキャリアにも力を注いできた同氏のコラムを、ぜひ、お楽しみください。
松井秀喜さんの背番号
昨年限りで、32年間勤めた日刊スポーツ新聞社を辞めた。
特別な不満があったわけではない。いや、長年勤めたので人並みの不満は胸に秘めていたが、退社とは一切関係がない。
きっかけは、55歳の誕生日を迎えた8月6日、何気なく「会社員生活も残り10年か」と思ったことだった。定年延長しても、基本的に65歳で退職となる規定があった。
残り10年。慣れ親しんだ会社で、「10、9、8、7…」とカウントダウンしていくのも、もちろん一つの道である。しかし、そこを飛び出して「1、2、3、4…」とカウントアップしていく道もあるのではないか。そんなことを考え始めたら、止まらなくなってしまった。
55歳。担当記者として巨人、大リーグでも取材した松井秀喜さんの背番号と同じ年齢である。松井さんは野球技能に優れているだけでなく、意思の強さ、周囲へのやさしさ、明るさ…人として尊敬できるスーパースターだった。彼の担当記者を務めたことは、私にとって大きな誇りになっている。
「55」は、私にとってもラッキーナンバーといっていい。
誕生日の思い付きは、瞬く間にふくらんでいった。
3日後の9日には甲子園球場へ行き、当時追いかけていた金足農業高校(秋田)の試合を取材した。金足農業は4-6で西日本短大付属高校(福岡)に敗れた。
その31年前、新人記者だった私が、初めて独りで取材したのは金足農業だった。
東北に赴任すると、上司から社用車のキーと地図を渡され「秋田県のスポーツをすべて担当するように」と指令を受けた。
「どこで、何を取材するかも自分で考えなさい」
そう言われて、真っ先に思い浮かんだのが金足農業だった。1984年(昭59)、甲子園の準決勝で、桑田真澄、清原和博のKKコンビを擁するPL学園(大阪)を2-3と苦しめた熱戦は、鮮明な記憶として残っていたからだった。
金足農業で始まった記者生活、金足農業で終わるのもいいかもしれない。
ベンチ裏の通路で、敗戦に泣きじゃくる金足農業の選手を取材しながら、退社の意思は固まった。
清原和博さんにも相談
帰京すると、すぐに信頼する方々に相談をした。いつも親身にアドバイスをくれる先輩、どんなときでも力になってくれる友人、そして清原和博さん。たくさんの激励を受けて勇気付けられ、私は退社の手続きを取った。
幸いなことに大学で特任教授という職に就くことができた。数年前から日刊スポーツの業務として、大学生に実務指導する役目を担っていたことから、次世代を担う若者の成長に、一役買いたいという思いを持っていたのだった。
大学教員の仕事を軸としながら、フリーのスポーツライターでも活動していく。そんな考えを口にしていたところ、MOOSE STADIUMを運営する株式会社与志田の代表取締役、吉田好太氏から声をかけてもらい、この連載を始めることになった。
これまでの取材活動の中で見聞きしてきたこと、現地取材で感じたこと、さらにはスポーツに対して考えること…さまざまな話題を取り上げていきたい。
さて、次回は清原和博さんについて書きたい。
私の記者生活において、この方の存在は欠かせない。
◆飯島智則(いいじま・とものり)1969年(昭44)8月6日、横浜市出身。93年日刊スポーツに入社し、東北地区のスポーツ全般を取材した後、東京本社野球部で98年ベイスターズの優勝、長嶋茂雄監督時代の巨人を担当し00年ONシリーズなどを取材。03年からは渡米してヤンキース松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当で球界問題を担当した。野球デスク、広告事業部、特別編集委員などを歴任し、24年限りで退社。現在は大学教員とスポーツライターの二刀流で活動している。
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