私がどのような取材をしてきたか。自己紹介もかねて、書いていきたい。
追いかけたアスリートは数多いが、印象深い選手を挙げるとすれば清原和博さん、松井秀喜さんになる。巨人時代から数多くの記事を書き、今なお付き合いを続けている。
清原さんは報道陣との溝が深かったものの、私は幸運にもよく話をさせてもらった。自主トレなどの単独取材を許され、多くの選手や監督、コーチも紹介してもらった。
新しい担当球団で関係者に挨拶したところ、多くの方から「ああ、キヨから聞いているよ。信頼できる記者だって」と言われたこともあった。一体何人に電話してくれたのだろうと、驚くしかなかった。
清原さんと親しくなれたのは、あの日が大きかったと思う。
1999年(平11)1月30日。翌日にはキャンプ地の宮崎へ旅立つという日である。
私はこの日、早朝から東京・麹町にあった日本テレビ社屋の前にたたずんでいた。朝の番組に出演する清原さんが出てくるのを待っていたのだった。
私はこの年から巨人担当記者になったばかり。前年末に先輩記者から清原さんを紹介してもらって名刺を渡したものの、その後は2人きりで話す機会がなかった。キャンプが始まれば、彼は大勢の報道陣に囲まれる生活が始まる。その前に2人で話しておきたかった。
テレビ局内での取材は許可されておらず、地下駐車場の出入り口で待つしかなかった。車で出てきた清原さんが、私の前を素通りしてしまえば、話しかけるチャンスはない。無駄足になる可能性が高いのだが、それを覚悟して待っていた。
松坂大輔への助言
「そろそろだろうか」と思い始めた頃、駐車場から爆音が聞こえ、真っ赤なフェラーリが飛び出してきた。まさに「飛び出してきた」という勢いで、私の前を通り過ぎていき、「やっぱりだめか」と思った瞬間に止まった。
窓が開く。
「おい、どうした?」
私が走っていくと、彼はフェラーリから降りてきてくれた。
「キャンプではあまり話せないと思ったので、挨拶に来ました」
「そうか。キャンプの準備もあるから、あまりゆっくり話せないけど、何か聞きたいことあるのか?」
私は慌てて、ルーキー松坂大輔投手について聞いた。甲子園のスターから西武ライオンズでプロのスタートを切る年だった。かつての清原さんと同じ境遇にある西武の後輩に、キャンプのアドバイスを求めた。
「そうだなあ。大勢の人に注目されて、松坂も大変だろうな」
そう言ってしばらく考えた後、3つのアドバイスを口にした。
「まず、怪我だけはせんように。あとは、周囲から注目されて雑音も入ってくるだろうけど、マイペースでやることだな。それと、先輩にしっかり挨拶すること。先輩たちにかわいがってもらえると、チーム内でプレーしやすくなるからな。俺も東尾(修)さんたちにかわいがってもらいながら、プロの生き方を教えてもらったよ」
再びフェラーリに乗って走り出す前に「キャンプ中も聞きたいことがあったら遠慮なく聞いてこいよ」と声をかけてくれた。
数年後にこの時に車を止めた理由について、清原さんは「お前が1人でいたからだよ」と言った。
「最近の記者はみんな一緒に行動しているだろう。どこの社の誰だか全くわからん。オレが若い頃の記者は、みんな個性があって、いろいろ書かれたけど、それぞれの顔が分かっていた」
これを機によく声をかけてもらい、いろいろな話をした。試合のポイントをよく見ていなかったとき、チーム成績などの記録を把握できていないときなど「そんなんじゃ選手たちに相手にされないぞ。しっかり勉強しろ」と、叱られたこともあった。感謝しても、しきれない恩人である。
なお、タイトルにある「清原番記者」は、清原さんが知人に私を紹介するとき、よく「オレの番記者や」という言葉を使うところから取った。「担当記者」よりも密着度が強いように感じて、そう紹介されることがうれしかった。
引退後も絶えることなく続いている付き合いについては、機会があれば、また書きたい。
最近の清原さんは、野球関係の仕事が多くなっている。5月9日にはヤクルト―巨人(神宮)、同11日には西武―ロッテ(メットライフドーム)の解説をした。西武ライオンズの本拠地を訪れるのは、2013年(平25)以来12年ぶりだったという。慌てず、焦らず、活躍の場を広げていってほしいものだ。
今後、機会があればアスリートのセカンドキャリアについて、思うところを書いていきたい。清原さんが逮捕された翌2017年から、私は「引退後の世界」という連載を始めた。
◆飯島智則(いいじま・とものり)1969年(昭44)8月6日、横浜市出身。93年日刊スポーツに入社し、東北地区のスポーツ全般を取材した後、東京本社野球部で98年ベイスターズの優勝、長嶋茂雄監督時代の巨人を担当し00年ONシリーズなどを取材。03年からは渡米してヤンキース松井秀喜選手に密着。05年からはNPB担当で球界問題を担当した。野球デスク、広告事業部、特別編集委員などを歴任し、24年限りで退社。現在は大学教員とスポーツライターの二刀流で活動している。
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