2月20日、埼玉県さいたま市で清原和博氏の講演会「野球から学んだ奉仕の心」が行われた。
会はいよいよ終盤へ。自身が誇りに思う記録から明かされたエピソードから、オリックス時代に受けた大手術。そして今後の目標などを飯島智則氏(日刊スポーツ編集委員)と語り合った。
(写真 / 文:白石怜平)
数ある記録の中で自身が誇れるもの
清原氏は実働23年で数々の記録を打ち立ててきた。歴代5位の525本塁打、同6位の1530打点など主要打撃成績のほかに、同1位の通算死球(196)、昨年西武の中村剛也選手が更新するまでは三振数(1955)もトップだった。
多くの記録について語られる中、「あれ、俺の一番言ってくれへんの?」と盟友の飯島氏に自ら切り出した記録があった。
「すごいこだわりを持っていまして、サヨナラヒット(20本)とサヨナラホームラン(12本)。長嶋さん・王さん・野村さんに勝っているんです。これだけは言わせてください」
と言った瞬間、会場全体から拍手が沸き起こった。サヨナラのかかった場面、どんな気持ちで打席に入るのかを飯島氏は訊いた。
「もう血が逆流するんです。『ここで決めるしかないやろ』と。普段打てないコースが打ててしまうんですよ。いい投手が出てくるのですが、自分の苦手なコースを攻めてくるんです。僕はアドレナリンが出過ぎているので、そこを打ててしまうんです。もう気持ちですよね」
その強い気持ちの原動力は何か。その答えは先に述べたことにあった。
「これも小さな積み重ねです。朝早く起きてトレーニングに行くのですが、続けることで『みんなが寝ている時に自分はやっているんだ』と。それがチャンスで強い気持ちを持つことにつながります」
スポーツ界で前例のない手術への挑戦
そしてオリックス時代の話へ。05年に巨人を退団した清原氏は、この年監督を務めていた仰木彬氏に「おまえの最後の花道をつくってやる」と熱烈オファーを受けて、故郷の大阪へ戻ってきた。
ただ、清原さんの体は満身創痍。06年後半に膝の状態が悪化し、手術を受けることになった。聞けば聞くほど、その壮絶さは聴講者の想像を超えるものだった。
「左ひざの骨ごと5ヵ所くりぬいてですね、右と左を入れ替えるという手術でした。スポーツ界で前例のない手術で、成功したとしても日常生活を取り戻せるかどうかというものでした。僕自身、史上初のことを成し遂げたいと思い先生に無理を言ってお願いしました」
人生で一番痛かったという手術は、立つことすら3か月を要するものだった。車いすから椅子に移ってタオルを引っ張ることから始めたという。
リハビリを経てグラウンドで練習を開始した清原氏は、その時感じたことがあった。
「自分の打球が明らかに30~40m以上違うっていうのがわかってきて、そろそろ潮時と感じましたね」
08年、記録と記憶にも残るスターはこの年でユニフォームを脱いだ。
現在は少年野球での指導も
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