「節目節目で開き直るといいますか、微塵も迷いがなかった」元ヤクルトスワローズ・副島孔太さん 日本シリーズでの劇的本塁打に詰まった勝負強さの源
かつてヤクルト・オリックスで活躍し、現在は指導者として学生を中心に指導している副島孔太さん。中学時代からお互いに面識のあった野村克也監督のもとで頭角を表し、98年には108試合に出場した。
00年に規定打席未満ながら打率.320を超えると翌01年、今も野球ファンの記憶に残るドラマをつくった。
(取材 / 文:白石怜平、表紙写真提供:ベースボールマガジン社)
00年には規定打席未満ながら打率.321、2桁本塁打をマーク
99年は前年からのさらなる飛躍をめざすも、故障の影響もあり36試合にとどまってしまう。
同年オフに膝を手術。キャンプからファーム暮らしが続いたが、イースタン・リーグでは打率4割をマークする活躍を見せ、再び一軍への切符を掴んだ。その後は外野の両翼を死守し92試合に出場。
規定打席未満ながら打率は.321をマークし、10本塁打を放つなど復活を見せた。しかし、フル出場を目指した01年、スタートは厳しいものだった。
「来年レギュラーで頑張るぞというタイミングで、前年怪我をしていた人たちが戻ってきたり(アレックス・)ラミレスが入団した。その中で競争となった時に、なかなか結果も出せなくてモヤモヤしていましたね」
スタメンはほぼ固定され、外野陣も左翼・ラミレス、中堅・真中満、右翼・稲葉篤紀と不動のメンバーだった。チームが首位を走る夏場、副島さんはファームでの調整を余儀なくされた。
しかし、この期間がのちに大きな結果を生み出す要因になった。
「二軍コーチだった角(富士夫)さんに、『日本シリーズもあるだろうしチャンスは来るから』と言っていただいて、レフトへホームランを打つ練習をやろうとひたすらやり続けていました。ファームで早速結果が出て、すごく調子が良くなったんです」
ただ、一軍では首位をキープし主力も離脱することなく戦い続けていたため、昇格のチャンスが訪れない日々が続いた。それでも副島さんは逆方向への本塁打を打つ練習を続け、好調を維持していた。
優勝が間近に迫ってきたころ、副島さんはついに一軍に昇格。10月6日に横浜スタジアムで優勝が決まった際には歓喜の輪に入ることができた。
「優勝が決まった次の日からは出場して結果を出せたので、自分の中で自信しかないくらいとても状態がよかったんです。そんな流れで日本シリーズに入りました」
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