3年目、イースタンリーグでの登板が最初で最後に
もがき続けながら2年が経ち、3年目(06年)を迎えた。背番号も15番から50番へと変更になり、社会人を経て入った身としては後がないシーズンだった。
ここで森さんがついに初登板を果たした。横須賀スタジアムで行われたイースタン・リーグの試合だった。
ただ、森さんは「1イニング投げたのですが、相手も忘れてしまっています」と語るほどで、まだ暗闇から抜け出せていない状態での”デビュー”だった。
「この試合、1イニングを0点に抑えているんです。ただ、球速で言ったら120km/h台位ですよ。プロ野球の世界で『なんでこの人が投げてるの?』って思われるようなボールでした。最後の年でしたね」
以降、ファームでも登板機会がないまま3年目のシーズンが終了。ここで戦力外通告を受け、横浜を退団することになった。通算成績はファームでの1イニング。一軍の舞台に立つ目標は叶わなかった。
「さすがに社会人卒で3年間結果が出ていない。そうなると”もう来るだろうな”というのは分かってしまいます。投球障害があることも全体に知られてしまっているので尚更です。なので、そこは受け止めるしかないと思っていました」
1年間充電し、トライアウト受験へ
ベイスターズを退団した07年、一度地元の石川県七尾市へと戻った。かねてから左肘の状態が思わしくなかったこともあり、小学生の時から診てもらっていた医師の元へ足を運んだ。
「そこで、”もう一度やってみるか”って言われまして。手術です。2回目の手術に踏み切りました」
1回目はベイスターズ時代の1年目オフに横浜市内の病院で一度行っていた。ただ、状態は芳しくなく、実はイップスとともに肘痛とも戦っていた。肘の痛みを消してから、もう一度マウンドへと戻る挑戦をしようと考えていた。
再び野球選手として勝負したい。その当時の想いを訊ねた。
「全盛期の自分を振り返って、元々あれだけの球を投げられていたというのがあったので、どうしてももう一度復活させたい。自分自身はできるんじゃないかと手術を経て可能性を信じました」
3月に手術した後は地元の大学の陸上部とともに体をもう一度鍛え直し、この年秋のトライアウトに照準を合わせた。
この間はボールを握らず、フィジカル強化に専念。投球練習を始めたのはトライアウトの約2ヶ月前だったという。
「あえて投球から離れてイップスも一度忘れようと思いました」
トライアウトは一発勝負。この一瞬に懸けるために約半年準備を重ねた。久々にボールを握った時も痛みがなく投げられ、自分に期待できる内容だった。
そして迎えたトライアウト。在籍時に試合で着ることができなかったベイスターズのユニフォームを着て臨んだ。しかし、野球の神様はなかなか微笑みを見せなかった。
「痛みもなかったですし、これはいけるんじゃないかと期待して実際に投げました。するとスピードが全然なかったんですよ。結局128km/h程度で、何しに来たのだろうかという感じで終わってしまいました」
ただ、長年悩まされてきた肘の痛みは解消されていた。かつての姿を取り戻せる可能性が少しでも高まった森さんは、マウンドを降りることを決して諦めたりはしなかった。
「肘は痛くなかったので、わずかな可能性を信じて、石川ミリオンスターズの端保聡社長に『練習生でもいいのでやらせてください』と直接お願いをしました」
森さんは地元石川県で復活ロードを自ら切り拓きに行った。
(つづく)
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