独立リーグでは好成績もイップスは消えず
自ら球団社長に”逆オファー”した森さんは、地元のBCリーグ・石川ミリオンスターズに08年7月に入団した。
最初の1年間は練習生としての契約だった。無給だったが、もう一度挑戦できることが何よりの喜びだった。
「金森栄治監督からも『まずは1年間じっくりやっていこう』と。そう言っていただきトレーニングからスタートしました。ここでダメだったら本当に野球は終わりだと思ったので、出来る限りのことをやりました。心機一転という言葉がぴったりなスタートでした」
ただ、野球から離れた時期があったと言えどもイップスが消えたわけではなかった。未だに過酷な現実と向き合う日々だった。
「プルペンで1年かけて投げ込んだおかげもあって球速も140km/h台に戻りました。日々投球障害との戦いでしたが、周囲はそれを分かって温かく見守ってくれたので、投げやすい環境ではあったと思います」
チームメイトのフォローのおかげもあり、かつての球速を取り戻しつつあった森さんは2年目の09年に練習生から正式に選手登録になった。11試合に登板し5勝3敗、防御率は1.88の成績をマーク。
翌10年も26試合に登板し102.2イニングを投げ5勝7敗、防御率は3.07。ブランクがありながらも、NPBでプレーした実力は確かなものだった。
球速も最速144km/hほどにまで戻り、好成績を挙げた。ではイップスは解消することはできたのか。その答えはNOだった。
「投げれると言ってもイップスとの戦いはずっと続いているので、たくさん登板させていただきましたけれども、マウンドに上がった時でないと自分の長所はわからない。結局四死球を恐れて投げていたので、ミリオンスターズにいた約3年間も変わることはなかったんです」
その不安は2010年についに限界を迎えた。前期で6試合の登板にとどまり防御率は6.60に急降下。前期を終えた段階で戦力外通告を受けた。
「ここでもう野球は辞めようと決めていました。これ以上のことはできないなと」
そしてついに森さんは現役生活にピリオドを打つこと決めた。
”本当の自分”を取り戻しに挑み続けたプロ生活
栄光で満ち溢れたプロ野球生活からは真逆と言える苦しんだ日々でしかなかった。森さんも自身の現役生活については険しい表情を見せながら語った。
「何もできてないですよ。このプロ野球人生。社会人2年目までは何も怖いものはなかったし、強打者でもなんでも来い!という気持ちでした。けれども、3年目からは野球として全く成り立っていなかった。この6シーズンは本当の自分が出せていない野球人生でした」
NPB3年で一軍昇格は果たせず退団。それでも左肘の手術やトライアウトにも挑戦した。ここでも夢は破れ一度野球から離れながらも自ら奮い立ち、独立リーグで現役復帰し約3年間プレーした。
野球をもっと早く辞めても不思議ではない中でも決して諦めることなく、壁へと立ち向かった。その原動力は何だったのか。
「自分の経験からでした。高校時代は石川県の奪三振記録を出し、社会人の2年目には内海(哲也:現西武ファーム投手コーチ)や香月(良太:元近鉄-オリックス-巨人)を超えて日本代表にも選ばれた。
そこまでは着実に結果を残してきて、プロでも通用する自信も持っていたので、その自分がいなくなってしまうことが考えられなかった。プライドかもしれませんが、確かな実績があったのだから自分はできるだろうと。それがあっての戦いだったと思います」