【インタビュー】第2回 元近鉄バファローズ・平江厳さん①

「自分の気持ちに踏ん切りをつけたい」未知の挑戦へ

その後、3球団(阪神、横浜、西武)で入団テストを受けるも不合格に。実はその前からある一つの想いが溢れていた。メジャーリーグへの挑戦である。

しかし、当時メジャーの舞台で活躍していた日本人選手は同期入団の野茂投手だけという時代。その意図をこう語った。

「僕がメジャー挑戦したのは、自分の気持ちに踏ん切りをつけるためでした。成功したいともちろん思っていましたが、無理だとしても挑戦したことによって、他の選手たちがやってないことに自分が挑戦した証を残したかった。野球を辞めるんならそれを持って辞めようとアメリカへ渡ったんです。」

英語も喋れない中での挑戦。まずグラウンドに立つために伝手をたどった。最初に相談したのが立花龍司さん。

立花さんは、89年から93年まで近鉄でコンディショニングコーチを務めており、平江さんと同じチームに所属していた。

95年から2年間はロッテ、そして97年からはロッテ時代共にしたボビー・バレンタイン監督に請われる形でニューヨーク・メッツに移籍。コーチを担うことになっていた。

「立花さんの助言に沿って僕はバレンタイン監督に手紙を書きました。送り先は当時メッツの本拠地だったシェイスタジアム。

読んでもらえるのかは正直分からなかったですが、知り合いの英語の先生に、思いの丈を英語に訳してもらってエアメールで送ったんですよ。そしたらチームから電話がかかってきました。ウソみたいなホントの話です。」

完全燃焼するため、メジャーへと挑戦した

電話の主はメッツの極東地区スカウト。幸い日本人であったため、遠投や50m走のタイムといった自らの情報を細かく伝えた。そこで実際に見てみたいということで、日本で入団テストを行うことになった。

立花さんの協力により、ロッテの室内練習場を借り一次テストを実施。合格し、アメリカへの挑戦権を得た。

平江さんはメッツのキャンプ地であるフロリダに入り、キャンプで入団テストを受けた。しかし、世界各国からアメリカンドリームを夢見て10代の選手も多くやって来る場。日本以上に競争が激しいことは容易に想像がついていた。

メッツのテストは残念ながら不合格となったが、すぐにマリナーズからオファーがあり、アリゾナへ飛んでマリナーズのテストを受けた。

しかし、ここでも不合格となりメジャー挑戦そして現役生活にピリオドを打った。これで自身の気持ちにも踏ん切りがつき、悔いなく完全燃焼した。

「プロ野球選手時代があって次の人生がある」

自らの現役生活を振り返った平江さん。プロ野球生活についてこう語った。

「10歳で野球を始め、小学校の卒業文集にプロ野球選手になりたいって書いているんですよ。子ども心に思っていても”絶対に行けるんだ”と思い続けてプロ野球選手になれた。

天職だと思ってやったものの7年間ダメで、終わった後に思う事は自分にとって天職ではなかったんだなと。僕の人生の中での一つのプロセス、プロ野球選手時代があっての次の人生だという一つのステップだったのだと思います」

メジャー挑戦を経てユニフォームを脱いだ平江さんには、新たな目標が芽生えていた。

第2回へつづく)

【プロフィール】
平江厳(ひらえ・いわお)1971年7月26日、愛知県豊橋市出身。

愛知・成章高から1989年に近鉄バファローズにドラフト5位で入団。プロ6年目の95年に一軍デビュー。7年目の96年に戦力外通告を受け、97年には単身アメリカに渡った。メッツとマリナーズの入団テストを受けるも不合格となり、現役引退。

その後は野球界を離れ、様々な職種を経験。米国でのメーカー勤務を経て06年にスポーツビズに入社、現在に至る。

現役時代は外野手で、身長182 cm・体重90 kg、右投右打。

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