「どこかで恩返ししたいって今でもずっと思っています」元近鉄・平江厳さん 2人の野球人への恩と人生の教訓
元近鉄バファローズの外野手で現在はアスリートのマネジメントやスポーツマーケティング事業などを行う「スポーツビズ」に勤める平江厳さん。
89年ドラフト5位で近鉄に入団し、96年までプレー。翌年メジャー挑戦するも夢破れユニフォームを脱いだ。引退後は野球界からは離れ、様々な職種を経験した後、再びスポーツの世界で活躍している。
全3回の最終回では、2人の野球人とのエピソードと自身の教訓を明かしてくれた。
(取材 / 文:白石怜平)
近鉄退団後、3球団の入団テストへ
平江さんは、96年のシーズン終了後に近鉄から戦力外通告を受けた。その一報を聞いたチームメイトが平江さんの元に駆けつけてくれた。
特に同期入団ながら7歳年上の石井浩郎さんは、病気や怪我でファームに来たときに夜間練習まで共に過ごすなど、1年目からその背中を追いかけていた。
「石井浩郎さん、光山(英和)さん、中根(仁)さん、的山(哲也)さんら、自主トレを一緒にやるチームメイトが『今後の平江について話そう』と集まってくれたんです。」
そこで平江さんは”僕はメジャーに挑戦したいです”と素直な想いを伝えた。まだ野球への情熱は燃え尽きていない。
どん底に落ちたからこそ誰もができないことを成し遂げたいと、闘争心にさらに火がついていた。ただ、先輩たちから返ってくる言葉も想像はついていた。
「もう一度考えなさいと。日本でやれるだけやってみることを考えて、それでもダメなら挑戦すればいいんじゃないかと。そう言ってくれました。」
その後、球団へ相談すると阪神・横浜(現:DeNA)・西武が入団テストを行ってくれるという話になり、受験することになった。
清原和博さんとの夢の時間と繋いだ紙の切れ端
阪神と横浜が不合格となり、最後に受けたのが西武だった。平江さんは西武第二球場(現:CAR3219フィールド)のグラウンドへ入ると、あのスーパースターがいた。
「ちょうど秋季キャンプのタイミングでした。この時期はファーム中心で一軍の選手は任意だったと思うのですが、そこに清原さんが練習によく来られていたんです。」
清原さんは、かねてから近鉄選手の体格の大きさに注目していたという。平江さんを一目見るや、声をかけてくれた。
「すごく僕に目をかけてくれて、初日から『えぇ身体してるなぁ。近鉄の選手はみんなデカいけど、どうやったらそんな身体になるの?』って。」
当時まだ球界では浸透していなかったウェイトトレーニングを近鉄は率先して導入していた。平江さんも取り入れ、50歳を過ぎた今でもそのオーラを放つほどの屈強な身体をつくり上げていた。
「練習が終わった後にも、僕がウェイト場でトレーニングをしていると清原さんもやっていました。清原さんと僕の2人だけの空間が長くあったんですよ。
『俺にウェイトトレーニング教えてくれよ』って言ってくれて、僕も知ってる限りのことを話したら、逆に清原さんがバットのスイングを見てくれました。」
球界を代表するスターと2人きりという夢のような時間を過ごした平江さん。しかし、西武の入団テストも不合格となりチームメイトになることはできなかった。平江さんもお礼を言いに清原さんへ挨拶に行った。
「間借りしていた選手寮を出る際、清原さんに『お世話になりました』と言ったら『ホンマか…』と。それで次の日出発する時に、わざわざ清原さんが餞別を持って来てくれたんです。」
両手いっぱいに持っていた紙袋には清原さんのジャージやスウェットが入っており、バットも2本手渡された。
「『これ、よかったら使えや』と言って渡してくれたんです。さらに紙の切れ端に携帯番号を書いてくれて、『何かあったらいつでも連絡くれや、頑張れよ。』って。なんていい人なんだと。その言葉を胸に僕はメジャーへ挑戦したんです。」
近鉄のチームメイト、そして清原さんの優しさを胸に最後の挑戦の場となるアメリカへと渡った。