元プロ野球選手の堀井恒雄さん(66)は、横浜市保土ヶ谷区天王町で「宇治茶専門店 又兵衛」を経営している。投手として大洋、ロッテで活躍した後、投手コーチとして1998年(平10)に横浜ベイスターズを日本一に携わるなど指導者、そして編成などフロントとしても実績を持つ。堀井さんの店を訪れ、話を聞いた。(取材/文:飯島智則)
3歳から玉露を愛飲
堀井さんが経営する「宇治茶専門店 又兵衛」は、大型ショッピングセンター「イオンスタイル天王町」から徒歩3分ほどの商店街の一角にある。2013年に近隣でオープンし、2022年に移転してきた。
「間口が広い店舗を探していたところ、空きがあったんです。イオンのオープンと同じ年ですね。人通りも多いし、おかげ様でお店は順調です」
移転後はお茶だけでなく、京都の漬物、ふりかけ、和菓子なども置いている。インタビュー中にも、漬物だけを買いにきたお客さんがいた。

「お勧めのお茶ですか? 好みがあるものだから、お客さんに話を聞いて勧めているけど、抹茶はぜひ飲んでみてほしいですね。最近では和紅茶も人気。これも私のいとこが作っているんです」
堀井さんは京都府城陽市の出身で、実家は明治時代から続く宇治茶の栽培農家を営んでいる。店名の「又兵衛」は、茶畑を始めた初代の名にちなんでおり、堀井さんは五代目に当たる。
「近所には堀井という名字が多くて、又兵衛は屋号で使われていた。『又兵衛のところの息子、恒雄』とね。そういう生まれだから、小さい頃から番茶、ほうじ茶、抹茶…玉露も3歳の頃から飲んでいました」
店名をローマ字で書くと本来「MATABEI」だが、外国人でも発音しやすいように、「MATABAY」と表記している。語尾の「BAY」が、堀井さんが投手コーチとして日本一に輝いたベイスターズ(BAYSTARS)を連想させ、何とも横浜らしく響く。
「今も横浜スタジアムへ応援に行きます。シーズンシートも欲しいんだけど、聞いたら5年待ちだって。大人気だね。球場に行っても、いつも満員ですよ」
なんともうれしそうな表情で、そう語った。横浜スタジアムが満員であること。そのありがたみを痛感しているからだった。
優勝した1998年の熱狂も味わっているが、その後の低迷期も知っている。チームは2002年に最下位へ沈むと、5年連続最下位、10年連続Bクラスという屈辱の時期もあった。親会社が変わるなどして、球団内部も混乱していた。そんな時期も体験しているのだった。

ドラフト2位、高木豊と同期入団
堀井さんは大谷高校から大阪商業大に進み、1980年(昭55)ドラフト2位で大洋ホエールズに入団した。大洋は、原辰徳内野手(東海大)を1位指名するが、抽選で外れ、広瀬新太郎投手(峰山高)を指名。その次に堀井さんが指名された。
なお、3位がスーパーカートリオの一角として活躍した高木豊内野手(中央大)、4位が市川和正捕手(東海大)である。
長男の堀井さんは家業の後継者と目され、自身も卒業後の道は一つだと考えていた。しかし、ドラフトで指名されると、父の又重さんはプロ入りを喜んでくれ、家業については何も言わなかった。
「そのうち帰ってくると思っていたんでしょう。結果的にかなり長くなりました」
大洋で6年間プレーした後、交換トレードでロッテに移籍。3年間プレーした後、金田正一監督に「引退せい!」と言われて、この年限りで現役引退となった。
「でも、同時に『コーチになれ』とも言ってもらって、指導者の道が開けました」
ロッテでは2軍コーチからスタートするも、1993年に八木沢壮六監督に指名されて1軍コーチになった。
「2軍で伸び悩んでいる選手にきっかけを与えるような仕事がやりたくてね。ずっと2軍で指導したかった。でも、1軍になってね」
1軍投手コーチは、チームの成績に大きな責任が伴う。1993年が5位、翌94年も5位と低迷した。八木沢監督は8月上旬から休養し、中西太ヘッドコーチが代理監督を務めた。シーズン後、広岡達朗GM、ボビー・バレンタイン監督の誕生とともに、堀井さんはロッテを退団した。
退団後は知人から勧められて、台湾・時報イーグルスの投手コーチに就任した。
「本当はアメリカに行きたかった。当時、大洋の渉外担当をしていた牛込(惟浩)さんが『マイナーコーチなら入れる』と言ってくれたんだけど、給料が安かった。まだ、子どもも小さかったし、年俸のいい台湾を選びました」
当時の台湾球界では八百長騒ぎもあり、2年間で日本に戻った。1997年はテレビ解説や、知人が社長を務める会社を手伝って生活していた。
夏が過ぎた頃から、初美夫人と翌年の生活について話し合うようになった。
「そろそろ京都に帰ろうか」
宇治茶の栽培農家という家業を継ぐ。そう決意を固めて、引っ越しの準備を始める段階になって、横浜球団から投手コーチのオファーがきた。権藤博監督が誕生し、大学の先輩でもある斎藤明夫コーチとともに、投手陣を支える役目を担った。
ドラフト指名時に続いて、家業の継承はお預けになった。
アメリカで飲んだお茶が…
当時の横浜は、「大魔神」こと佐々木主浩を中心に、島田直也、五十嵐英樹、阿波野秀幸ら、リリーフ陣につなぐ継投が持ち味だった。堀井さんはブルペンにいて、彼らを支えた。
「98年はおもしろかったね。最初、権藤さんから『キャンプでは余計なことを教えるなよ』と言われて、それは守っていたんだけど、選手たちと雑談していたら、権藤さんに呼ばれて『教えるなって言っただろう』と怒られたこともありましたね。懐かしいです」
2軍も含め2004年までコーチを務め、退団が決まると、再び家業が頭をよぎった。「今度こそ京都に帰ろう」と思ったところに、思わぬ話が舞い込んできた。
アメリカ独立リーグに参加する日本チーム「ジャパン・サムライ・ベアーズ」の投手コーチである。巨人で活躍したウォーレン・クロマティが監督を務め、話題になったチームである。アメリカの野球に興味を抱いていた堀井さんは、これを引き受けた。
「いい経験になりましたね。アマチュアの選手ばかりで挑戦する野球はおもしろかった。クロマティともいろいろ話して、この年も印象に残っています」
野球ばかりでなく、「お茶」にとっても大きな出来事があった。
日本茶を飲んで育ってきた堀井さんは、アメリカ生活の中でも時々お茶が飲みたくなった。スーパーで茶葉を買って飲んだ。
「驚くぐらい、まずかった。『カビが生えているんじゃないの』と思ったぐらい。偽物なんだよね。これがジャパニーズ・ティー、グリーン・ティーと思われていたら悔しいとね。外国の人にもホンマもんのお茶を知ってほしいなと思いましたよ」
この思いが後に生きてくる。帰国後にベイスターズで編成部長などフロント業務に従事した後、親会社がDeNAになった2011年限りで退団した。
「宇治茶 又兵衛」を開店したのは、その2年後のことだった。
現役選手へのアドバイスと目標
経営者として過ごす今、プロ野球の経験は生きているのだろうか? 野球界を離れてから、なかなか仕事になじめない元アスリートは多い。アドバイスを求めた。
「自分で考えて動くかどうか。同じ野球をやっていても、そこで大きな差が出ますよね。私は人の言うことを聞かないタイプだったから(笑)、練習から何から自分で考えてやっていました。それは今に生きていると思いますよ」
堀井さんの選手時代は昭和。それこそ指導者や先輩に従う日々ではなかったのだろうか。
「大学の練習は厳しかったけど、メニューは自分たちで考えるスタイルだった。ピッチングの順番も選手同士で話して決めていたしね。プロでも明夫さんら先輩にお世話になったけど、何から何までベッタリというわけでもなかった。やっぱりプロは個々に考えてやる世界だから」
堀井さんが、知人で、野球塾を営む経営者から聞いた話を紹介してくれた。指導を担う元選手たちに「塾の運営からすべて任せます」というと、元選手たちは嫌がるのだという。
「運営から任せてもらえるなら、本来うれしいはずでしょう。でも、嫌がるのは、指示された方が楽だからだと思うんですよ。野球選手には、そういう部分がある。でも、自分で考えて動いた方がいい。そういう選手生活を送っていたら、きっと引退後も役立つと思いますよ」

今後の目標を聞いた。まずはお茶について。
「海外展開を伸ばしていきたいですね。野球をやっていたおかげで、海外にも仲間がたくさんいる。アメリカならボストン、ニューヨーク、カリフォルニア、台湾にもいる。そこを基点に、海外の方に、日本のおいしいお茶を飲んでもらいたい。きっと喜んでもらえると思うんですよ」
野球の目標はあるのだろうか。ベイスターズを退団してから、すでに14年が経っている。
「そうだねえ。大リーグ球団のスカウトは興味ありますよ。日本で活躍している選手でも、アメリカの野球に『合う』『合わない』は間違いなくある。そこの見極めをして、日本での成績ではない部分で評価して、アメリカに送り出せたらと思う」
アメリカで活躍できる投手の条件とは? どんなポイントを見るのだろうか?
「まずはコントロール。あとはキレというのか、同じ球速でも『ドスン』というより『ピュッ』とくる…言葉にするのは難しいけど、アメリカ向きのタイプっていますよね」
宇治茶、そしてピッチャーとも、日本からの世界進出が、堀井さんの目標となっている。
◆「宇治茶専門店 又兵衛」 横浜市保土ヶ谷区天王町1-27-3、営業時間11~18時、定休日は日、祝、不定休
◆オンラインストア https://www.matabay.com/shop
◆堀井恒雄(ほりい・つねお) 1958年(昭33)11月15日、京都府生まれ。大谷高から大阪商業大を経て、80年ドラフト2位で大洋入団。86年に47試合登板で7勝4敗2セーブを挙げる活躍。88年にロッテへ移籍し、90年限りで現役引退。通算成績は168試合、15勝17敗2セーブ、防御率4.47。引退後はロッテ、台湾・時報、横浜、サムライベアーズなどでコーチを務め、横浜(DeNA)で編成部長も務めた。
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