【インタビュー】第8回 元中日ドラゴンズ・石川駿さん ①

「野球を辞める」から社会人野球の頂点へ- 元中日・石川駿さんが歩んだプロ入りまでの道のり

中日ドラゴンズで内野手として6年間プレーした石川駿さん。現在は柔道整復師の国家資格取得を目指して専門学校に通う“学生”である傍ら、国士舘大学硬式野球部をはじめ、各所で野球の指導者としても活動している。

引退時「野球はもうお腹いっぱいです」と語った石川さんの野球人生とは―

初回は、度重なるケガと戦いながらプロ野球への扉を開いたアマチュア時代を振り返る。

【取材/文 中嶋絵美(フリーアナウンサー/フリーライター)以下、敬称略】

「プロにいけなかったら野球を辞める」叶わなかった、高卒プロ入りの夢

小学生の頃から口癖のように「プロ野球選手になりたい」と言っていたという石川は、春夏通算6回の甲子園出場を果たしている地元・滋賀県の北大津高校に進学する。

第79.80回のセンバツ甲子園に出場。大会通算600号のホームランを放った石川は、高校通算49本塁打を記録したが、3年生夏の県大会初戦で受けた死球で左尺骨を骨折。チームからの離脱を余儀なくされ、高校からのプロ入りも叶わなかった。

「本当は『プロにいけなかったら野球を辞めます』って言っていたくらいプロ野球にいきたかったんですけど、結果、今の力じゃ無理だということで。それで明治大学にとっていただきました。」

「辞めさせられない」導いてくれた恩師の想いを胸に

明治大学硬式野球部に入部した石川だが、1年時は、前年の骨折の影響、2年時は左膝の靭帯損傷、3年時には打球が左目に当たったことによる視力低下など、度々ケガに苦しみ、試合にも出場できない時期が続いた。

「大学時代、まだまだ子供だったのですぐに『辞めたい』という考えに走って、実際に善波監督(達也・当時)に伝えに行ったこともありました。そうしたら『辞めさせられない』と言われて。

僕が明治大学に入ることで、別の選手の受け入れを断っていたみたいなんです。それで監督とOB会が少しギクシャクしたことがあったようで。監督の口からはいまだに聞いていないんですが、周りの人達からその話を聞いたときに“辞められないな”と思いました。」

野球を辞めようと考えた時期もあったと話す。

度重なるケガを乗り越えて、4年生の春に副将となると、ようやくリーグ戦初出場を果たした石川。しかし、秋には再びケガに見舞われ、プロ志望届を出すことはなかった。

その後、社会人野球の強豪・JX-ENEOS(現ENEOS)に就職する。

「社会人でできるとも当然思っていませんでした。今指導している国士舘大学の選手たちを見ていても、やっぱり4年生の春だけ試合に出て…というのはなかなか厳しい。

その中でもENEOSの大久保(秀昭)監督がどこかの試合で見てくださっていて、それだけで選んでくださった。善波監督からも『ここでやりなさい』と後押しがあって、ENEOSで野球を続けることを選びました。

善波監督に導いてもらい、大久保監督に育ててもらった野球人生です。」

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