「バスの運転手でも何でもやります!」元日本ハム 嶋田信敏さん ”親分”に導かれたテストでのファイターズ入団から一軍デビュー前まで
かつて日本ハムファイターズで選手として16年、コーチとして6年活躍した嶋田信敏さん。
当時のドラフト外での入団から這い上がり、プロの世界で長く活躍した。今回は嶋田さんにプロ野球人生から現在、恩人である大先輩・大島康徳さんとの話などについて伺った。
(取材 / 文:白石怜平)
小さな新聞記事から日本ハムにテスト入団へ
嶋田さんは日大藤沢高校から1978年に入団。高校時代は怪我の影響で不完全燃焼だったことから、卒業後も野球を続けたい・プロに挑戦したいという想いを抱いていた。
最初に巨人の入団テストを受験。100人近くが受けた1次テストを通過し、2次の6人に残るものの不合格となってしまった。野球部で嶋田さんだけ進路が決まらない状況となり、悩んでいた中で偶然開いた新聞の小さな記事が運命の扉になった。
「(巨人が不合格になり)さぁどうしたものかと思った時、新聞を開いたら日本ハムが入団テストをやるという記事が小さく載っていたんです。それで当時の多摩川グラウンドへ受けに行きました」
嶋田さんはテストに合格、それを決めたのは”親分”だった。
「(当時の監督だった)大沢啓二さんが直接声をかけてくれたんですよ。『お前、外野手だったら獲ってやるけどどうだ?』と言ってくださったので、『もう何でもやります!バスの運転手でもやりますので』って答えました。
そしたら、『よしわかった!これにサインしろ!』となって。それで寒風吹きすさぶ多摩川グラウンドのスカスカのバックネット裏で仮契約ですよ(笑)」
トントン拍子に進んだ日本ハムへの入団。そこではテストで見せた実力もさることながら”運”も大きな力になった。
「大沢監督が藤沢出身なので、それで最初の会話が『お前日大藤沢か?』って(笑)。そもそも入団テストに普通一軍の監督がグラウンドに来るなんてないと思うんです。スカウトやファームの首脳陣に任せると思うので。
ちなみに僕は高校3年間肩を壊していて、野球ができていなかったので夢のような話でしたよ。18歳の若造が大きな野球バッグ一つ抱えて電車乗ってグラウンドに行って。合格して両親に報告したら喜んでくれた。そこが原点ですよ」
1
2