「球拾いしながら一軍の選手をずっと観察していました」元日本ハム・嶋田信敏さん 4年間のファーム生活で切り拓いた一軍への道
元日本ハムファイターズの外野手として16年、コーチとしても2期で計6年務めた嶋田信敏さん。
神奈川県藤沢市の同郷だった”親分”こと大沢啓二監督からテストで合格をもらい、当時の多摩川グラウンドで仮契約をした。ファームで実力をつけ、入団4年目の82年オフに球団からアメリカへ派遣された。
本場の野球を学び帰国後、ついに念願の一軍デビューを果たした。そのデビューの過程では、嶋田さんの探究心そして先輩方との出会いがあった。
(取材 / 文:白石怜平)
アメリカ留学を経て5年目に一軍デビュー
1982年のイースタン・リーグが終了した後、活躍が評価されて当時業務提携を結んでいたニューヨーク・ヤンキースへ3ヶ月ほど留学。後に西武に入団するオレステス・デストラーデさんらと共にプレーし、本場アメリカの野球を体感して帰ってきた。
球団が期待を寄せた有望株は83年、苦節5年目にしてついに一軍へと昇格した。プロ初出場は8月10日、岩手県営野球場での西武戦で9回表に中堅手としてデビューした。
早速守備機会が訪れた場面は今でも忘れない思い出になっている。
「打者が確か大田卓司さんが打ったフライが飛んできた。ずっと多摩川でやっていたからナイターは初めてだったので、打球が全然違うように感じて怖かったですよ。
ショート守っていた高代(延博)さんに返したら大笑いして『大丈夫か〜顔真っ青だぞ!』って(笑)。もしあれを落としていたら野球人生は全然違う方向へ行ったと思うね」
この年と翌年は24試合に出場。85年には71試合出場とどんどん機会を増やしていった。
ファームで観察し続けた一軍選手たちの振る舞い
嶋田さんがテスト入団から這い上がれた理由。それはファームでの過ごし方にあった。約4年にわたるファーム生活でのエピソードを明かしてくれた。
「一軍の選手が多摩川で練習する時に、1年目とか2年目の若手はフリーバッティングで球拾いの手伝いをしていたんですよ。僕は球拾いしながら一軍の選手がどんなことを話しているのかずっと耳を傾けていた。
あとはどんなグラブを使っているのかを見たり、バットもそう。僕なんかは全体に白いボールの跡がついていたけれども、一軍の選手のバットは芯の辺りにしか跡が付いていなかった。
とにかく一軍のことに興味津々だったね。そこから3年目くらいかな?自分なりに二軍の選手の輪に染まると駄目だということに気がついたんです。若くして気づけたのが本当に大きかったですよ」
プロ野球はとりわけ厳しい競争社会であり、選手枠も限られる。ファームでは一軍から呼ばれないことや、試合に出場できないことに少なからず不満を漏らす選手もいたという。
嶋田さんはその雰囲気や派閥に染まることなく、常に上のレベルを見据えて行動していた。一軍の選手の立ち振る舞いから観察することで、それを力へと変えていった。
「何しにここに居るんだと考えるとまずは試合に出ることだし、どこを目指すんだとなればまず一軍に上がらなければいけない。なので成功している人の行動にひたすら目を向けていましたね」
それは練習だけでなく試合中でも同様だった。怪我などで降格してきた選手の様子を観察し、守備位置に就くまでの姿やベンチでの振る舞いなど一挙手一投足から目を離すことはなかった。
「ただ試合でヒット打てばいいとかではないですよね。巨人と試合した時も当時は駒田(徳広)や吉村(禎章)がいて、あと水野(雄仁)とは実際に対戦もしました。そのあとしばらくしたら一軍に上がるわけですよ。
だから、『あの選手たちのレベルまで行かないと自分も上がれないんだ』と考えていた。他の選手はゼロやプラスからのスタートかもしれないけども、(テスト入団の)自分はマイナスからのスタートだったんでね」
毎年戦力外通告が行われる10月になると、息子を心配した父親から電話がかかってきたという。
「シーズン終わるとすぐに電話かかってきて、『クビか?』『今年も大丈夫』そんな会話を当初は毎年していましたよ(笑)」
30秒ほどしかなかったという会話の中にも、親として心配してくれたことを肌で感じてそして感謝の気持ちを抱いていた。
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