11月9日、都内で「プロ野球温故知新」の最新回が開催された。中日・阪神でプレーし、阪神では監督も務めた矢野燿大さんが関東のファンに熱く語る機会となった。
(写真 / 文:白石怜平)
監督時代、左の大砲にかけ続けたゲキ
スタートは今季の阪神やドラフトにまつわる話について。
今季、セ・リーグでは阪神が独走でプロ野球史上最速のリーグ優勝を達成した。その立役者が球団生え抜き選手としては掛布雅之さん以来40年ぶりの40本塁打を達成した佐藤輝明選手。
矢野さんが監督を務めていた20年のドラフトで4球団競合の末に引き当てた選手でもある。当時の心境を明かしてくれた。
「テルの時は豊作の年で、外れても他にいい選手がたくさんいましたから『当たればラッキー』という気持ちで過度なプレッシャーを感じず引けたので、それがよかったのかもしれないです」
矢野さんは監督として佐藤選手をルーキーイヤーから起用。1年目から24本を放ち、2年目には全試合出場も果たした。この2年間、佐藤選手には発破をかけ続けていたという。
「テルが入団した時、いつも僕は『目標を小さくするなよ』と伝え続けていました。彼が『ホームラン40本が目標です』と言うので、『それは小さい。40本って言ってたら40本打たれへんぞ。もっと行けよ!』って言いました。
たぶんそれで50本って言っていたと思います。やはりそのくらいの気概でやってほしいですし、何より可能性がある選手なのでね」

実は、その佐藤選手に教えていた“先輩”が6月にこの場に登場していた。その人物とは同じ近大出身で、球団のSA(シニアアドバイザー)を務めている糸井嘉男さん。
2月の沖縄・宜野座キャンプで臨時コーチも務めた際に打撃指導をしており、
「面で打つには、クリケットのような板を使うといいなと。それを大谷(翔平)君もやってたんです。 それを見て『これいいな!』って思って持ってきましたね」
などと語っていた。糸井さんの指導についても触れた際、「嘉男は癒しと言うか、メンタルのサポートです」という矢野さんの回答にタイガースファンで埋まった会場は笑いに包まれた。
「この人から言われたら安心するとか、この人が言うなら『あ、そうなのかな』と思えるのは選手の立場としてはありますから。
同じ大学で打者としても同じタイプですし、 嘉男自身もかわいがりたい気持ちと、テルも慕っているので、グラウンドで顔合わせるだけでも違うと思いますよ」

球史に残る2人の名将の下でプレーした現役時代
続いては現役時代の話題に。ここでは、星野仙一監督・野村克也監督という2人の名将に仕えたことから、当時のエピソードで盛り上がった。
中日時代は星野監督の下で厳しい指導も受けたというが、「怖いけどめちゃめちゃ優しい。男が男に惚れるような方」と闘将への想いを続けた。
「現役時代は星野さんに認められたい気持ちでやっていましたし、グラウンドから離れたらとことん心配してくれる。
相談の電話をした時はすぐに『いついつ、〇〇に来い』って言ってくれて、たくさん話をさせてもらいました。現役を辞めてからも星野さんのパーティーとかいろんなところに呼んでいただいたりもしました」
中日時代は自身を阪神に放出した監督でもあることから、実は01年にオフに阪神監督就任が決まった際は不安からのスタートでもあったという。ただ、その不安は徐々に払拭されていった。
「星野さんは僕を使うんですよ。 いろんな選手のことを『あいつはどうや?』すごく聞くんですよ。なのでその度に『あいつはこうなので、僕はこう思いますとか』といったコミュニケーションを取ってくれました」

ここでベンチでのある行動から、その前に指揮を執っていた野村監督の話へとつながっていく。
「昔の僕を知ってる人は分かるかもしれないですが、星野監督の前に僕は座っていました。 現役時代もずっと監督の横に座ってたのですが、あれは星野さんの教えだったんですよ。『 キャッチャーは監督の近くに座っとけ』と。
なので、野村さんの時も“ぼやき”をずっと前で聞いていましたが、すごく良かったなと思いますね」
同じ捕手だった名将から受けた薫陶。これは矢野さんの後の野球人生にとって大きな意味を持つ期間だったと語る。
「野村さんとやったから今の僕があるというのが強いです。野村さんと出会ってなかったら、僕は3割打てるなんてまずなかったし、現役で20年やれることもなかった。監督としての考え方も野村さんから教えていただいた部分もたくさんあります」

野村監督の下では3年間プレーしたが、お馴染みの“ぼやき”について思わず本音もこぼした。
「野村さんは新聞とかで伝えるですよ。『矢野のリードあかんわ』『何であの場面であんな入り方するのかな』とかを次の日見るから、すごくヘコむんですよ(笑)。
直接言ってくれた方がまだいいのになって思うんですけども、それは野村さんのマネジメントの仕方だったのかもしれない。ただ、それがきつくて新聞は見なかったです」
「キャンプイン前日の退任発表」に秘められた理由の一端
さらにトークは弾み監督時代に。18年オフに金本知憲さんの後を継いで監督に就任。在任4年間全てAクラス入りし、翌年日本一の礎を築いた。
最終年となる22年には、キャンプイン前日に同年限りでの退任を全選手たちの前で発表し、話題を呼んだ。当時の意図についての話題になると、「いろいろありましたよ」としつつも明かしてくれた。
「一つではないのですが、ここで挙げるならば原口(文仁)と横田(慎太郎)という選手の生き方を見ていました。
横田も野球がほぼできないはずなのに、一番最初にグラウンド出てきて、一番最初に練習を始めていたし、試合も出られないのにベンチの一番前で一番でっかい声出して。
原口も始め(大腸がんと)聞いた時、『野球どころちゃうやん…』と思いました。 でも原口もグラウンドに帰ってきた。野球に対する姿勢がすごい二人を僕は見ていました。
それで自分は『来年も監督をやってる』って思い続けていると自分にも甘えてしまうのではないかと思ったんです」

加えて、自身が日々接してきた選手たちが育った実感があったと語る矢野さん。伝えた時に選手たちは特に驚いた様子などはなかったと言う。ただ、ここでファンに向けてはある思いが残っていた。
「僕は1個だけ、ファンの皆さんには申し訳なかったなと。やはりこれからキャンプで、皆さん今年も期待してるぞ!っていうタイミングで監督を辞めると言ってしまった。そこの考えは少し薄かったなと。
でも僕の中ではこの立場にすがるというのも嫌だったし、“俺は覚悟を決めて、明日はないと思って頑張る決意”もあったので、本当にいろいろ総合しての理由です」

質問コーナーでは参加者も深い学びを得る時間に
最後は質問コーナーに。ここでは矢野さんの指導における金言の数々が披露され、参加者の心が温まる空間がつくられた。
少年野球の監督を務めているというファンから寄せられた「試合に出ながらどう育成していけばいいか」という質問。この問いには、指導現場における課題をまずは明示した。
「小中学校でも目の前の試合を全力で勝ちに行きますよね。もちろん勝つことは大事なので、それを全力で教えるのはいいのですが、そこだけにフォーカスするとおかしな指導になってしまうんです。
例えばエラーしたら『お前何してんねん』とか『腰高いんじゃ』とか、三振したら『そんなんで打てるか』となると、子どもたちの勇気を奪ってるだけなんです」
現在小中学生と直接関わることも多い矢野さん。ここから保護者や指導者たちに実践してほしいことを熱く述べた。
「僕は親御さんや指導者の皆さんに『子どもさんの行動と姿勢を見てください』って言うんですよ。 打ち損じて悔しかったけども、全力疾走したかどうかを見てくださいって。
そしたら『よう走ったなって。悔しかったけど諦めんかったやろ。 その姿勢貫けよ』って。三振やエラーしてベンチで声が出なくなる。これは普通ですよ。 でもベンチで仲間を一生懸命応援する子もいるんですよ。
悔しい時でも、その声を認めてあげてほしい。『 お前の声すごいなって。 ガックリきとったら普通ベンチで声出えへんぞって。 その声は誰かを背中を押したり、勇気づけられる。そんな力がお前にはあるんだよ』って。
僕はどう勝つかよりも、子どもたちの行動と姿勢を認めてあげるっていうことをしていってほしいんです」

矢野さんの活動の一つに「オレたちの野球プロジェクト」がある。チームを訪問し「野球を通じて子どもも大人も共に学び・共に成長できる環境作り=“野球共育”を推進するプロジェクトである。
応募の多い奈良県を中心に広まっており、上で述べたことを発信し続けている。
この活動について「体力的には疲れますけど、気持ち的にはすごく楽しいです」と笑顔で語っており、充実感を覗かせていた。
1時間を超える充実のトークショーは学びと共感で包まれながら終了。その後はサイン&撮影会が行われ、直接の交流を楽しんだ。
(おわり)












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