【インタビュー】第9回 元オリックス・川越英隆さん ②

仰木監督と川越さんの思い出

05年、合併球団がまとまる上では欠かせない人物が一人いる。紹介するまでもないが名将・仰木彬監督である。川越さんがプロ入りしてから3年、そして05年の4年間仰木監督の下でプレーした。

05年から仰木監督が指揮を執ることが決まった時の心境について、

「僕も正直、2つのチームをまとめられるのは仰木さんしかいないと思いました」

と率直な思いを語った。

ただ、ご存知の野球ファンの方も多いが仰木監督は病と闘いながらベンチで采配を振るっていた。川越さんも間近でその姿を見ていた。

「点滴を打ちながらもずっとやられていましたし、主治医の方も一緒に遠征に帯同して、サポートをされていたので相当大変だったと思います。僕も心配しましたね…」

仰木監督との思い出も振り返った(筆者撮影)

仰木監督はまさに命懸けでオリックス、そして野球界のためにユニフォームを着続けた。ちなみに、川越さんに仰木監督との思い出を聞くとまた”らしい一面”も伺うことができた。

「遠征先で夜ホテルにいたら『何やっているんだ”外に出ろ!』と怒られました(笑)それで夜に街を歩いてるとお会いする時もあるんです。それでご一緒する時もありました。

仰木さんは暴飲暴食はしないで、お寿司・焼肉・飲み屋さんとはしごするんですけれども少しずつ食べて飲むって感じでした。そこで野球の話はほとんどせず世間話が多かったですね」

08年はリリーフに転向し、初のCS進出に貢献

続く06年には9勝を挙げ、07年には3年連続で開幕投手としてマウンドに上がるなど主力投手として投手陣を支えた。

08年からはこれまでと違う役割を担うことになる。開幕から調子が上がらず、テリー・コリンズ監督の辞任から大石大二郎監督代行となって5日後の5月25日を最後にリリーフへと転向した。

長年先発投手として一線を張り続けてきた川越さん。先発から離れることについて抵抗はなかったか。

「年齢的な面もあり力が落ちつつあって、若いピッチャーも出てきていました。もちろん負けたくなかったし、ローテーションに入ることを目標にやっていたのですが、一軍に残るためには与えられたポジションで投げる必要もあると思いました。なので抵抗はあまりなかったですね」

08年からはリリーフに転向した(筆者撮影)

そこから毎日のようにフル回転し、自己最多の51試合に登板。チームも2位で初クライマックス進出を果たし、その原動力にもなった。

リリーフについては「やりがいもありましたし、勉強になった」とも語る。先発との違いも含めて勉強になった経験について話した。

「先発は試合全体を自分が組み立てられるところに面白さがありました。リリーフでは、勝ちパターンのセットアッパーを任されたときや、緊迫した場面でピンチを乗り切った時はすごく気持ちよかったです。あとは、長く先発をやっていたので、まずは”勝ちを消さない”っていうプレッシャーが本当に強かったですね」

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