かつて広島東洋カープで投手としてプレーし、現在は台湾の社会人野球チーム「覇龍隊」でコーチを務めている金丸将也さん。
アマチュア時代は本格派のサウスポーとして入団し、大野豊投手コーチとの出会いから技巧派のサイドスローへと変貌を遂げた。
実働期間は3年だったが、現在の指導者生活につながる数々の財産を手にした期間でもあった。
(取材 / 文:白石怜平)
「ボロボロでした」もがき苦しんだルーキーイヤー
金丸さんは、中部大学から社会人の東海理化を経て10年ドラフト4位で広島に入団した。最速150km/hを超えるストレートを武器に、即戦力左腕として期待を受けた。
ルーキーイヤーである11年の春季キャンプ、一軍スタートなった金丸さんは主力投手の球を間近で見て「一方でレベルの違いを感じたのが最初の印象でした」と最初の印象を語った。
当時のエースは前年沢村賞を獲得した前田健太投手(現:タイガース)、リリーフでも横山竜士投手(現:広島二軍投手コーチ)などが主力として投げていた。
「テレビで見ていた人が目の前で投球しているのをたくさん見れるというのも勉強になりました。ただ、前田健太投手や大竹寛さんもいて、一軍の投手は、例えばアウトコースに10球構えたら2球は絶対外さない。
あとキレとスピード、全て兼ね備えていたので『これはエラいとこに来てしまった』と感じましたね」
この年はファームで10試合の登板に終わる。当時の状況をこう振り返った。
「一年目はボロボロで、自分の投げたいボールは投げられませんでした。投手で一番やってはいけない、”四球を怖がって手元でコントロールをしようとしてボールが弱くなる”の繰り返しで、もう全ったくチームに貢献できませんでした」
自身のセールスポイントである150km/hを超えるストレートは影を潜め、「140km/hやっと出る感じでした」と語るほどだった。プロに入って最初に当たった壁を破るため、三軍で鍛え直すところからスタートした。
「コントロールがアバウトだったので、三軍で中﨑(翔太)と一緒にいたのですが、『どうやってコントロールするかよりも捕手が構えているところにどう力を出していくか』を勉強する場所だったので、それに向けてのトレーニングや走り込みをやっていました」
一つの転機になったレジェンド左腕の教え
一年目の秋季キャンプ、ここで以降の野球人生を支えているとも言える出会いが訪れる。殿堂入りも果たしている同じサウスポーからの教えだった。
「その時コーチをされていました、大野豊さんからの教えが大きかったです。僕は腰を真横に動かしてオーバースローで投げていたので、『上から投げるのが合っていないんじゃないか。腕を低くしてみたらどうだ』とアドバイスをいただきました」
サイドスローに転向するとその教えはすぐに結果へと表れた。キャンプ中に行われた紅白戦で、4度登板し8イニング無失点の快投を見せた。
これまで長年武器にしてきたものだったが、勇気を出して捨てた。「大野さんから『お前が生きる道じゃないか?プロで飯を食うってそういうことだよ』と諭してもらったのが大きかったです」
当時指揮官だった野村謙二郎監督からも「来年の春のキャンプは一軍だよ」と直接声をかけてもらい、飛躍へのきっかけとなった。
大野コーチから教わったことは技術的なことだけではなかった。43歳まで一軍でプレーし、当時56歳という年齢を感じさせない動きが金丸さんを惹きつけた。
「大野さんから球種ごとの指のかかり方の違いなどたくさん教えてもらったのですが、一番驚いたのがキャッチボール。100m近い距離でも低く真っ直ぐ投げるんです。自分の身長より高く投げないので本当にすごいなと感じました」
その姿を見たことがきっかけで、「プロに入って改めて基本に戻れたと思いました」と語った。
「大野さんに限らず、ファームのコーチも見るとやはり皆さん山なりでは投げないんです。以前あるコーチに聞いたことがあったのですが、『それは試合で使わないでしょ』と。
『遠投で大きく体を使って投げるなら分かるけど、そうじゃないなら試合で投げる球じゃない』と教えられてから、僕は上に投げるキャッチボールは一切しなくなりました」
指導者になって気づいた「打者と勝負していない」の意味とは?
野村監督の言葉通り一軍キャンプでスタートした2年目。変則左腕として相手を翻弄し、オープン戦でも結果を残した。
しかし、無情にも一軍に残ることはできなかった。
「投げたいように投げれたのですが、『最初から打者と勝負できていない』と指摘されました。キャンプ終わって広島に戻るタイミングで二軍に行きました」
結果を出していながらのファーム通告に「正直、納得いかない部分もあった」と心境を吐露した金丸さん。その意図は指導者になってから気づいたという。
「宮崎で独立リーグの監督もやって若い選手を見た時に感じたのですが、打者と勝負していないというのは『変化球を曲げようとする』とか、コースにキレイに投げようとする』ことをしていたのではないかと。
ブルペンはそうやって投げないといけないですが、試合は打者と勝負しないといけないので、それに該当したんじゃないかと。自分なりの解釈して辞めた後に納得しました」
ファームで再び一軍を目指す中、シーズンも開幕した。ここでもまた、大野さんに続くコーチとの出会いがあった。
「二軍に行った時に内側側副靱帯の怪我をしてしまい三軍に行くんですが、コーチが青木勇人さんでした。青木さんもサイドスローだったので、フォームづくりから教えていただきました」
具体的にどんな教えがあったのか。金丸さんはこう明かしてくれた。
「青木さんは、『左のサイドだからこそ、誰もやっていないことをやりなさい』と。一番大きかったのが、プレートを一塁側スレスレのところから立って投げる。左打者は嫌がるだろうと。
打席から見てバックスクリーンから手が出るように投げていたので、打者はボールが光って見えないと。判断に迷うので活路が見出せたと思います」
実際にマウンドに上がった際に、今も現役のあの打者にも効果てきめんだったという。
「ソフトバンクの柳田選手が当時ファームにいたのですが、勝負する機会があって。何度か見逃し三振するんですよ。ど真ん中でも三振を奪えました。
打席で『見えん!』と叫んでましたから(笑)。いろんな取り組みの中でサイドスローをやってよかったと、抑える術が増えたと思います」
投球術を身につけ防御率1点台と結果も残した金丸さんだが、一軍からのオファーは届かない。気持ちが落ち着かない日々が続いた中、首脳陣から”愛ある教え”を受けることになる。※つづく
(取材 / 文:白石怜平、表紙写真:本人提供)
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