広島で3年間プレーし、現在は台湾の社会人野球チーム「覇龍隊」でコーチを務めている金丸将也さん。
1年目のオフに、当時の大野豊コーチからのアドバイスでサイドスローへと転向し、一軍キャンプ入りの切符を掴んだ。しかし途中でファームに落ちてしまい、再び一軍を目指した。
それでもファームでも好投を見せた中、気持ちとのギャップに悩まされてしまう日々でもあった。
「気持ちが荒んでいた」という中、監督・コーチから受けた大目玉
抑える術を身につけた金丸さんはファームで結果を残した。37試合に登板し、防御率1.17。しかしここまでの結果を残しながら、またしても一軍からはお呼びがかかることはなかった。
「周囲からは”信じられない”とも言われた。いつでも行ける準備はしていてと言われていましたが、呼ばれなかった。
自分の実力不足なのですが、気持ちが怒りに変わっていた。私は典型的な宮崎人、何があってもカッとならないのですが、12年は気持ち的にも荒んでいた時期でした」
グラウンドでは自身のプレーに集中できるも、離れると突きつけられた現実に耐えることができず、物に当たってしまったり声を荒げることも多かったという。
ただ、首脳陣の面々はその姿を見逃すことはなかった。
「二軍監督が内田順三さんだったのですが、僕に厳しくしてくれたんです。手に跡がついているのが見つかると、『お前は何しとるんや!』と大目玉をいただきました。
当時コーチを務めておられた澤崎俊和さんや、小林幹英さんからも『何でそんなことするんだ!』と叱られましたね。
内田さんからは、『そんなことして上に行けると思うのか?自分を大切にできないようじゃダメだ。何をしたら一軍に上がれるかをもっと考えなさい』と。それでもう一度自分の気持ちを見つめ直すきっかけになりました」
勝負の3年目、「変えない勇気」が裏目に
結果と心境のジレンマと戦いながらもファームで結果を残したのは紛れもない事実。一軍マウンドに向けて鍛錬を続けた。
「手元で変化するような”きたないボール”を強く投げることを秋季キャンプのテーマにしました。とことん体を追い込んで、ブルペンでも18.44m以上、キャッチボールでも塁間以上の距離で投げ込みました」
13年の春季キャンプでは初のファームスタートとなった。「もう後がないと思ってやっていました」と危機感は当然ながら持って臨んだ。
しかしシーズンに入っても一向に前年のようなパフォーマンスを発揮できずもがく日々が続いた。
「ある試合でバットを短く持った打者に本塁打を打たれて、違和感を覚えたんです。その後がいけなかったのですが、『打たれちゃいけない』と思ってしまったんです。つまり最初に話した打者と勝負できていなかった。
低めに投げないきゃといった結果がランナーを溜めてしまい、それで打たれるか交代かが続きました」
一度狂った歯車。戻すためにはいい意味で”頑固になること”が近道と考えた金丸さんは、”あえて変えない”ことを選択した。
「これまで積み重ねたものでいい結果を出したいと。もちろん様々な教えも聞きましたし、質問もしました。もっとスライダーを曲げてみようとか。
ただ、深みにはまっていくまま戻ることはなかったですね。やはり根本的な打者と勝負するということができていなかったのだと思います」
ファームでは24試合に登板するも防御率3.50と前年より数字を下げてしまった。この年のシーズン終了後、戦力外通告を受けた。
「フェニックスリーグまでは帯同していたのですが、スーツ着て球団事務所にきてと言われたので覚悟はしていました」
NPBでは一軍に上がることはできなかったが、3年間支配下選手としてプレー。さらにファームでは防御率0点台に迫る活躍を見せた。
改めて振り返ると、大きな転機を与えてくれたのはあのレジェンドだと語った。
「一年だけでしたが、ファームで活躍するきっかけを与えてくださったのは大野豊さんの存在でしたね。
腕を横にすることもそうですし、これまでずっと武器にしてきた150km/hの真っ直ぐを捨てる決心をさせてくれた。その恩は今でも忘れてないです」
ユニフォームを脱いだ金丸さんは、第二の人生へと踏み出した。※次回へつづく
(取材 / 文:白石怜平、表紙写真:本人提供)
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