野球人生で初の逆境とも言える巨人時代
そして96年オフにFA宣言。球界を代表するスターには、巨人そして阪神が獲得に名乗りを挙げた。共に全国区の人気を誇り、ドラフト時では共に希望球団でもあった。
悩みに悩んだ清原氏の決断を後押ししたのは、母親だった。
「実家で巨人と阪神の帽子をかぶって『どっちが似合うかな』ってやってたんです。そしたら母親は強かったですね。『アンタ巨人相手に負けたらまたに泣くんか!』と。それも(巨人入りを決める)理由の一つでした」
その巨人では、重圧と苦悩の連続だった。移籍初年度の開幕戦から4番を務め、同年32本塁打・95打点をマークするなど、セ・リーグでもその実力を見せた。
しかし常に勝利を義務づけられるプレッシャーや、常にメディアの注目が集まる独特の雰囲気の中で、不調の際は容赦なくバッシングの的になった。
「当時監督は長嶋(茂雄)さん。松井(秀喜)くんもいました。勝ったら長嶋さんと松井くんが一面、負けたら全紙”清原大ブレーキ”って載りますから。毎日コンビニ行くのがつらかったですよ」
初めてと言ってもいいほどの逆風を浴びながらの日々。怪我にも苦しみ、本来のパフォーマンスを発揮できない時期もあった。そんな状況を、どう乗り越えていったのか。
「シアトルにウエートトレーニングなどをしに行きました。『格闘家にでもなるのか』などと言われましたが、今は体を大きくする選手たくさんいますよね。あとは今まで好きなもの食べていたのが急にささみや卵白にして食事も改善しました」
その肉体改造により、元々あるパワーがさらについて飛距離を増した。また、進化したのは体の面だけではなかったという。
「『みんなが好きなことをしたり、食べている時に俺はここまでやってるんだ』という自信を持ったことで、プレッシャーの掛かる打席で強い気持ちを持って打席に入れるんです。小さな積み重ねが大事だと思います」
巨人時代での話の後は、清原氏が打ち立ててきた数々の記録についても紹介され、06年からプレーしたオリックスでの話題に。スポーツ界で前例がなかったという手術についても語られた。
(つづく)
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