日本シリーズの記録にも記憶にも残る決勝弾の秘話
迎えた近鉄との日本シリーズ、今もファンの記憶に残る最高の見せ場が第4戦にやってきた。1-1で迎えた7回裏の先頭、若松監督が副島さんを代打に送った。今だから言える、その時の心境を明かしてくれた。
「本来は先頭打者なので、何としてでも塁に出るのがセオリーですが、正直本塁打を狙っていました(笑)」
再び燃え上がったスラッガーとしてのプライド。相手はこの年61試合に登板したリリーフエース・岡本晃投手だった。
「確か初級からスライダー2球を空振りして追い込まれてしまいました。岡本投手はサイドスローで決め球がシンカー系のボールだと思ったので、『外に沈んで空振りしたら仕方ない』と割り切って振りました」
外角いっぱいに来た球を振ると、打球はライナーでレフトへ。そのままスタンドに突き刺さり、値千金の決勝本塁打となった。スワローズはこの試合で王手をかけ、翌第5戦も勝利し4勝1敗で日本一に輝いた。

「夏からレフトに打つ練習を始めてからの道のりがあってここにたどり着いた。外角いっぱいで見逃せばボールと言われるかもしれないような球だったので、あれをもう1回打てって言われても打てないです(笑)」
大舞台で結果を残し続けてきたある心構えとは
上で述べた割り切りの精神。実はここに副島さんが大舞台で勝負強さを発揮し続けてきた一つの答えがあった。日本シリーズでの本塁打の話をした際に、合わせてこう語ってくれた。
「節目節目で開き直るといいますか、微塵も迷わなかったんです」
前年の00年に再び一軍の舞台で活躍を見せた時も、ターニングポイントがあった。
「一軍昇格した最初の試合で代打で出ました。相手は広島の長谷川(昌幸)投手。そのときフルカウントになったのですが、日本シリーズの時と一緒で『ここでフォークが来たら仕方ないな』と思い切って振ったらフェンス直撃のタイムリーになって、そこから出場機会が増えていきました」
プロの時だけではなく、高校時代そして日の丸を背負った中学時代も同様だったという。この割り切りが迷いを捨て、大舞台でも動じない強靭なメンタルをつくりあげた。
02年、トレードでオリックスへ移籍し04年までプレー
日本一に貢献し再びレギュラー奪取を誓った02年、慣れ親しんだ燕のユニフォームに別れを告げることになってしまう。戎信行投手とのトレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍することになった。当時の状況を振り返った。
「全く考えていなくて、京都で試合が中止になって東京へ戻る新幹線に乗る前に、『着いたら新橋(当時球団事務所があった場所)に行ってくれ』と。もう一つしかないよなと。複雑な気持ちはありました」
入団時から共に戦ってきた仲間そして地元でもある東京から離れ、関西へと移った。初めてのチームメート、関西ということで新たな環境に慣れる必要もあった。
「僕も気を遣うし相手にも気を遣われるし(笑)でも、同級生が牧野(塁)や戸叶(尚)、(山口)和男などがいて、裏方さん合わせると10人以上いたので、居心地がよかったんです」

ただ、当時はイチローさん始め95年・96年のメンバーが相次いでメジャー挑戦や国内球団へと移籍しており、過渡期のタイミングでもあった。チームも低迷する中、自身ももがく日々が続いた。
04年、大阪近鉄バファローズとの合併問題がある中でプレーを続け、オリックス・バファローズとなったこの年のオフ、戦力外通告を受け、オリックスを退団することとなった。
「まだまだ実力的にやれる自身はありましたが、年齢なども考えるともしかしたらという覚悟はありました」
ここでNPBのユニフォームを脱ぐことになったが、野球の道はまだ途絶えることはなかった。
(つづく)
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