08年に都市対抗野球へ出場し、新たな勲章が加わる
その後副島さんは、クラブチームから企業チームへと身を置くことになる。07年からは桐蔭学園高校時代の同級生である萩島賢さんが当時監督を務めていたフェデックス(現:FedEx)硬式野球部へと移籍した。
「野球には関わりたいなと思っていました。飲食店で働きながら野球を続けることができたので、みなさんに助けていただきました」
新天地でのスタートとなったが、ここでも苦労を重ねていた。長野県に拠点を置き北信越地区に所属していたが、当初は地域の連盟からは”元プロ”が歓迎される雰囲気ではなかったという。
副島さんは入部当初から連盟の集まりに参加するなど、運営に積極的に協力する姿勢を見せることで信頼関係を築いていった。実力もさることながら人間性も高く評価され、2年目には早くもTDK千曲川の補強選手として、都市対抗野球への出場を果たした。
中学野球では日本代表として世界大会を制覇。以降、甲子園出場・大学日本選手権制覇・NPBでの日本シリーズ制覇、クラブチームでの全日本クラブ選手権大会出場、そして社会人での都市対抗野球。ほぼ全てのカテゴリーでの頂点を決める大会に出場もしくは制覇した。
「入団当時のルールだと元プロは社会人に戻ることはできなかったんです。その間に変わって出ることができました。これでほぼ全てのカテゴリーで日本一を決める大会に出られたので、これは自分でも誇れる部分ではないかと思っています」
その後、10年からは東京都のクラブチームである鉄腕硬式野球倶楽部に移籍。翌年から2年間は選手兼任監督を務め、12年をもって選手生活にピリオドを打った。その決め手はアスリートらしい理由であった。
「走れなくなったのが一番大きな要因でした。次のステップに進む時なのかなと思ったので(現役引退を)決めましたね」
その次のステップはすでに場を積んでいた指導者への道だった。ここでもさまざまなカテゴリーを経験した副島さんだからこその味が光るフィールドだった。
(つづく)
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