乙坂智 変化を求めたDeNAでの10年 「自分自身変わりたい」掴みにいった数々の”点”が未来への”線”に

21年までDeNAに在籍し、昨年はメキシコでプレーしている乙坂智選手。DeNAを退団後はメキシコ・ベネズエラ・アメリカと海外を渡り歩きながら野球を続けている。

昨年はメキシコの名門レオネス・デ・ユカタン(英語名:ユカタン・ライオンズ)でリードオフマンを務めた。来たるシーズンに備え、現在は日本でトレーニングを続けている乙坂選手に特別インタビューを実施。

DeNAでの10年や海外での奮闘について語ってもらった。全4回にわけてお送りする。

(写真 / 文:白石怜平)

一軍初打席初本塁打の鮮烈デビュー

横浜市出身の乙坂は、地元の強豪・横浜高校で1年秋からレギュラーを獲得する。

3年生だった2011年には同級生の近藤健介ら(現:ソフトバンク)と共に春夏連続で甲子園に出場し、同年ドラフト5位で横浜(現:DeNA)ベイスターズに入団した。

少年時代から横浜スタジアムに通うなどの大ファンだった地元球団からの指名。入団が決まった当時の心境を語った。

「嬉しい気持ちと共に、高校野球の時に後援会の方やチームメイト、指導者の方々など環境に恵まれたので、みなさんへの感謝が一番でした」

地元球団であるDeNAでは10年プレーした(24年12月撮影)

ルーキーイヤーの12年。このシーズンから「横浜DeNAベイスターズ」となり、その”1期生”として迎えた。初めてのキャンプではプロのレベルに衝撃を受けた。

「特にフィジカル面ですごさを感じました。球の速さやキレ、打球を遠くに飛ばすことなど全てにおいてです。ある時、高森勇旗さんが早出特打をしてたのですが、場外HRを簡単に打っていたんです。僕は外野に飛ばすのもやっとだったので、体の強さが違うと感じましたね」

乙坂にとって心強かったのは、横浜高で自身が1年生の時に3年生だった筒香嘉智がいたことだった。先輩にアドバイスを請いながら、その背中を追いかけた。

「筒香さんからは『ウェイトトレーニングをした方がいい』と話をいただいて、方法を聞いたりもしました。とにかく先輩方の見よう見まねでやり続けました」

プロ入り当初は先輩の背中を追う日々だった(24年12月撮影)

2年間はファームで過ごしたが、3年目の14年にチャンスが訪れる。イースタン・リーグでは5月時点で4本塁打を放つなど開幕から好調を維持し、初の一軍昇格を決めた。

そのデビューは鮮烈に飾った。5月31日のQVCマリンフィールド(現:ZOZOマリンスタジアム)で行われたロッテ戦。9回に代打としてプロ初打席に立った乙坂は益田直也から本塁打を放ち、史上57人目の初打席初本塁打をマークした。

一軍では6試合出場だったがファームでは初の規定打席に到達するなど、以降の一軍定着に向けて確実にステップアップしていた。

「毎日試合があるので、まず体力がないとシーズンもたないと考えていました。3年目は年間通じて試合に出させてもらい経験を積む中で、ゲームに出るためのコンディショニングや毎日試合に出る体力がついてきたと思います」

ポストシーズンで活躍も「連れて行ってもらった感覚」

翌15年にはプロ初スタメンを含む52試合に出場し、8月にはリードオフマンを任された。この年のオフに初めてウィンターリーグに参加。筒香と共にドミニカ共和国へと渡り、海外の野球に触れた。

今は日本を離れてプレーし、後述する多くの気づきと共に野球と向き合っているが、当時は「そこまでアンテナを張れていなかった」という。

「あの時は筒香さんについて行って、海外の野球に触れて練習するだけでした。ただ、ドミニカでは特にメジャーリーガーも参加していたのですが、環境がいいとは言えない状況の中で日々戦ってるのを見て『日本は恵まれているんだな』と感じてはいました」

当時はまだ気づかないことが多くあったという(24年12月撮影)

16年、17年とチームはクライマックスシリーズ(CS)そして日本シリーズへと進出。特に17年はCSで代打の切り札として5打点をマークし、日本シリーズでも第1戦にスタメン出場を果たすなど、短期決戦での勝負強さを発揮した。

入団時は最下位に低迷していた”暗黒期”だったが、チームが強くなっていった過程を肌で感じた。当時をどんな心境で過ごしていたのか。

「球団の方も、ユニフォーム着ているメンバーも一緒になって”チームを強くしよう”と様々な取り組みをしていました。

僕も地元からベイスターズに入ることができて、そんな中で一軍に”連れて行ってもらった”感覚でした。CSや日本シリーズも周りの方々が勝ち獲ったものでしたし。でも日本シリーズの舞台は特別でした。

ただ、とにかく技術がなかった。事の重大さに気づいていないと言いますか。もちろん当時も必死にやっていましたけれども、今思うともう少しできたのではとも思っています」

「自分自身を変えたい」映画での言葉が心を動かす

日本シリーズを戦った17年オフ、乙坂は単身で海を渡った。後にプレーすることになるメキシコのウィンターリーグに参加した。実現したのは、意外なきっかけからだった。

「ある日映画を見ていたんです。その中で刺さる言葉があって。自分自身”変わりたい”ときっかけを探していた時でもあったので、すぐ海外の知人に連絡をしたんです。そしたら、『練習生であれば来てもいい』とのことだったので、即決しました」

その時見ていた映画がナオト・インティライミさんのドキュメンタリー映画「冒険記 旅歌ダイアリー」。実際に行動するまでに至ったフレーズを明かしてくれた。

「当時の僕には『自分がその場にいれば景色はそのままだし、動き出せば景色は変わる』この言葉が刺さりました」

変化を求めていた中で刺さった言葉があった(24年12月撮影)

参加したメキシコのウィンターリーグでは過酷な移動も経験した。以前参加したドミニカ共和国のリーグでは長くても4時間程度だったのに対し、ここではバスで12時間という長時間移動もあった。

さらに車内で座っては「ここは俺の席だ」と言われ、どかされる繰り返し。通路で体育座りをしながら、空き缶とその中身が転がってくる屈辱と長旅に耐える日々だったという。

18年は73試合に出場すると、その年のオフにも再びメキシコに渡って鍛錬を続けた。

そして19年には自己最多の97試合に出場。本拠地で行われたCSファーストステージでは第2戦にサヨナラ本塁打を放つなど勝負強さが磨かれていった。

自分自身を変えたい想いからメキシコでの挑戦に臨み、徐々に野球でも変化が起きていったように感じたが、具体的に変化できた部分を訊ねると意外な言葉が返ってきた。

「何か言わないといけないかもしれないですが、”当時の僕は”マジでないです(笑)」

ただ、それは今も海外でプレーし続けているからこそ言えるかつ理解していることだった。

「今の僕の立場って帰るところがないんです。そこで結果を出し続けないと生き残っていけない。ただ、当時はベイスターズという帰る場所があった。その気持ちで行くと得られることってあまりなかったなと。あくまで僕はですけれども。

もっとアンテナを張っていればいろいろなことに気づけたかもしれないですが、そもそも行かないと後々になっても気づけない。当時は点が線にはならなかったんです」

今は”帰る場所”を自身で日々つくっている(24年12月撮影)

「点と点がつながっていく」メキシコへの挑戦

ただ、この2年間メキシコへ行ったことは後の野球人生における大きな意味を持っていた。それはDeNAを退団した21年に再び縁がつながることになる。

「ベイスターズを終えた時は野球すること自体を決めていなくて、『必要としてくれるチームがあるならやりたい』と。もしそうなら、一番最初に声をかけてくれたチームに行こうと決めていました。

それが点と点で繋がっていくですが、17年に行った時の監督がオファーをいただいたチームのGM補佐をやってて、その縁で呼んでくれたんです」

これまでは期間が限定された中での挑戦だったが、今回は生活そのものがメキシコに移ることになる。

「多少の不安はありましたけれども、期待に応えたい気持ちがありました」

その想いとともに、乙坂の海外挑戦が始まった。

つづく

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