元ヤクルトスワローズ・宇佐美康広さん 「入団して初めて生でプロ野球を見た」驚きの連続から始まった7年間の現役生活

元ヤクルトスワローズの捕手・内野手で現在は埼玉県戸田市にある野球用品専門店「ロクハチ野球工房」を営む宇佐美康広さん。

北海道出身の宇佐美さんは、94年にヤクルトへ入団し00年まで現役としてプレーした。引退後は広告代理店や不動産の営業を経て現在に至っている。

今回は全4回にわたり、宇佐美さんの現役生活から始まる”挑戦”の人生についてなどを伺った。

(取材 / 文:白石怜平)

ヤクルトからの指名に「まさかと思った」

宇佐美さんは、北海道・稚内大谷高から93年ドラフト6位でヤクルトに入団した。当時のポジションは捕手。この年リーグ連覇、15年ぶりの日本一を果たしたチームからの指名だった。

指名された時は、「本当にまさかと思いました」と語り、ドラフト当日の出来事を語った。

「僕はドラフトにかかると思っていなかったんです。ヤクルト、あと近鉄から話は来ていましたが、監督からは『おそらく指名はされないと思う』と言われて当日は下宿所にいました。

なのでドラフトの時は学校にいなかったんです。多分監督は親心で、もし指名されなかったらショックを受けるだろうからということでそうしてくれたのだと思います」

ドラフト当時のことを振り返った

プロ野球選手としてのスタートを切った宇佐美さん。実は、プロ野球を生で観たことはなく、「ブラウン管の中の話で、本当に別世界」だったという。

入団して初めてプロの野球を目の当たりにし、驚きの連続だった。特に最初に衝撃を受けたのはブルペンに入った時だった。

「最初に驚いたのはスピード。北北海道では、投手は130km/h超えたら速球派と言われるエリアでした。そこからプロに入って二軍といえども、みんな140km/h以上を投げ込んでくる。

スピードボールを捕るのが正直怖かった。最初打席に入ってもボールが見えないし、バットも振れなかったですから。そのスピードに慣れるまでが大変でしたね」

一度、伊藤智仁投手の球を受ける機会があったという。あの伝家の宝刀を目の当たりにした時も驚きを隠せなかった。

「スライダーを2球連続で捕れなかった。曲がり幅とか、今まで見た軌道とは全然違いましたね」

その他にもプロ野球の厳しさを感じたのはメンタル面だったという。

「練習や試合を毎日するので、体が常にどこか痛いですし、その中でもパフォーマンスを出して結果につなげていかないといけない。そして結果を出し続けないと一軍にもいけない。

ファームで100試合と言えども毎日野球をやっているので、その中で打った・打てない、守れた・守れないと毎日結果が付いてくる。

それで評価をされて、一軍に上がれるかどうかが決まるから、結果を出し続けるプレッシャーが大変でした」

若松さんから受けた厳しい中での温かさ

プロ3年目、宇佐美さんは捕手から内野手へコンバートされた。一軍では球界No. 1捕手、古田敦也選手がチームの看板選手として黄金期を築き上げている真っ只中だった。

「壁が厚い云々の前にそもそも自分がライバル視する位置にいない」

と語る通り、雲の上の存在だった。自身もまだ一軍に1試合も出られていない状況。「3年目でもダメだったら厳しいと思っていた」と危機感を感じており、何かを変えなければいけなかった。

そのきっかけを与えてくれたのが当時の若松勉二軍監督。同じ北海道出身の”小さな大打者”は、同郷の後輩に手を差し伸べた。

「身長170cm、体重も当時70kgだったから、プロの中でも小さい方ですよね。 ただ、足と肩には自信があった。ここを活かすなら、内野で守備範囲を広げて打撃では小技を利かせようと。このタイミングでスイッチヒッターにも挑戦しました」

若松さんの進言で内野手へコンバートとなった

攻撃面ではシュアな打撃と盗塁、守備面では堅実な内野手を目指した方が一軍に上がるチャンスが広がると考え、若松二軍監督は宇佐美さんにコンバートを勧めた。

宇佐美さんも、「それで試合に出るチャンスをもらえるんだったら、何でも挑戦しようと思いました」と意気に感じた。また、若松さんは、”後輩”である宇佐美さんをすごく気にかけてくれたという。当時のやりとりを明かしてくれた。

「みんなの前ではすごく厳しかったです。ただ、キャンプ中とか風呂とかでばったり会って2人きりになると優しい声をかけてくれましたね。

『よく頑張ってるよな』とか、『このままやっていけばチャンスは必ず来るから頑張れよって』。そんな事みんなの前では絶対言わないですから(笑)でもこういうフォローもしてくれるので、厳しいこと言われても頑張れました」

6年目で一軍に初昇格、初安打もマーク

プロ6年目を迎えた99年、ついに一軍昇格を果たす。指揮を執っていたのはファームでもがく姿を間近で見ていた若松さんだった。内野手に故障者が出たことからチャンスが巡ってきた。

初出場は横浜スタジアムでの横浜(現:DeNA)戦、昇格翌日に出番が来た。終盤で代打として送られ、ついに一軍の舞台に立った。相手は当時の主力だった斎藤隆(現:DeNA一軍投手コーチ)投手。打席に立った時のことは今でもはっきりと覚えている。

「斎藤さんが先発でずっと投げていて終盤で僕が出たのですが、初球は絶対振ろうと思って。そしたら三塁側にフラフラっと上がってファールフライかと思ったのですが、スタンドに入ってくれて。粘ったのですが、変化球を引っ掛けて投ゴロでした。

あの時はちょっとうるっときましたよ。やっとここに立てたんだと。緊張もしましたが、スタンドの声は全く聞こえていない。目の前のピッチャーしか見えていなかったので、集中できていましたね」

一軍に上がった時は感極まったという

その後も一軍に帯同し、試合前の練習や試合展開を見ながら準備するなどベンチでもアピールを続け、再びチャンスが巡ってきた。広島市民球場での広島戦、ここでも終盤の代打だった。澤崎俊和投手から左前打を放ち、プロ初安打をマークした。

そして6月12日に8番・二塁で初スタメンに抜擢された。しかし、ここでまた衝撃を受けることになる。

「終盤に出た時と序盤での投手の球質が全く違いました。スタメンで出るも3三振で交代。それ以降はなかなかチャンスを掴めなかったです」

「最終戦のスタメンに自分の名前が」翌年が最後のシーズンに

99年は一軍デビューを果たし15試合に出場。これを弾みに翌年さらなる飛躍を目指した。ファームで開幕を迎えたが、異変を感じていた。

「ファームでも開幕戦に毎年出場させてもらっていたのですが、この年はなかった。若手をどんどん使うようになっていったので”これはまずいな”と。終盤の代打でなんとか出られる状況でした」

宇佐美さんの出場機会は訪れず、”これはもしや”と戦力外が頭をよぎり始めていた。そしてシーズン最終戦、その不安が的中する出来事があった。

「ファームの最終戦で、スタメンに名前があったら今年で終わりだなと思って球場に行ったらスタメンが1番・宇佐美って書いてあった。これはそうだなと。戦力外になったら野球を辞めるつもりでいたので、自分の引退試合だと思って臨みましたね」

7年間の現役生活は「悔いはない」と語った(本人提供)

オフに入り戦力外通告を受け、ヤクルトを退団。ここで現役生活に別れを告げた。7年間のプロ野球選手生活をこう振り返った。

「二軍ではレギュラーを獲れて(98年の)ファーム日本一も経験できた。6年かけてやっと一軍に上がれた。そこで結果を出して一軍でもやっていける手ごたえを掴めれば別の考えもあったと思いますが、レベルの違いを痛感したと言いますか、”これは厳しいかもしれないな”と正直思っていました。

ただ、自分なりには北海道の最北端から出てきた身で、プロ野球も生で見たのは入団してからだった。キャッチャーから内野へコンバートして、一軍でヒット2本しか打ってないけれども、よくここまでやったなと思います。全然悔いは無かったですし、自分のやる事はやったと思えました」

ユニフォームを脱いだ宇佐美さんはこれから新たな挑戦をしていく。

つづく

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