6月29日、都内で糸井嘉男さんのトークショーが開催された。
メディアで見ない日はないほどの多忙を極める“超人”の登場に、虎党を始めその勇姿を知るファンは大いにその空間を楽しんだ。
(写真 / 文:白石怜平)
学生時代から超人ぶりを発揮
この日は阪神が神宮で試合が行われた後ということもあり、縦縞の背番号「7」のユニフォームを着たファンの姿が多く見られた。その試合では阪神が勝利を収めており、イベント開始前からその余韻と熱気が会場を包んだ。
持ち前の明るいキャラクターもあり、入場時から「会場の後ろにあるピアノで弾いても大丈夫ですよ」と意外なツッコミ?で笑いを取った。
トークショーでは糸井さんのルーツを振り返る話題に。
野球を始めた小学生の頃からプロ野球選手への想いは描いていたという。その夢から現実に変わったタイミングが明確にあった。
「リアルに感じられたのはスカウトが来てからでしたね。『あ、なれるわ』って思いましたね(笑) 。小学校からもちろんなりたいと思っていましたし、なんか“なれるんじゃないか”って思ってたんですよ。 根拠はないですよ。 根拠も何もないけど、なれるって意識でやってましたね」

学生時代も怪我との闘いだったという糸井さん。ここでも超人ぶりを表す伝説が披露された。
「もう膝のお皿が割れてるのに気づかずにやってました(笑)。ちょっと痛いなと思ったんですよね。そしたら割れてて、お医者さんには『いや、ホンマにこれでようやってたな』なんて言われて即手術しました。僕が痛いっていうのは相当な大怪我だとはよく言われます」
そして、03年のドラフトでは当時の制度にあった自由獲得枠で日本ハムに入団。当時投手だった糸井さんは”なれる”と思っていたプロ入りを現実のものとした。
「日本ハムは高校時代からスカウトの方が見に来てくれてたんですよ。いくつかお話はありましたが、そういう縁もあって入ることになりましたね」
北海道一年目に共に入団し、”新庄劇場“を間近で体感
04年にルーキーイヤーを迎えることになるが、この年は日本ハムにとって北海道移転一年目。
つまり、現在その日本ハムの指揮を執る新庄剛志監督と”同期入団”に当たる。メジャーから日本球界に復帰した稀代のスーパースターを「野球選手の中に1人芸能人がいるみたいなイメージ」と表現した。
ファイターズを北海道の新たなカルチャーとして根付かせ、ファンを獲得していったその努力を間近で見ていたと語る。
「近くで見てましたけど何もかもが影響しかないですよね。ファン獲得する努力。 かぶりものとか、試合前に天井から登場したりもありましたし、ああいったパフォーマンスがあってね、すごい人気になっていったと思います」
ただ、糸井さん自身は投手としては芽が出ず二軍生活が長く続いていた。2年目を終えた頃、そして一つの転機が訪れたのだが、実はそれも当時の新庄選手が影響していた。
「ほぼ(投手を)クビですよね。 それで1週間あげるから、 ピッチャーを続けるか野手に転向するかを決めてくれと。足が速いからそれ活かせるいうことで」

そこで、新庄選手からかけられたことがふと頭に浮かんだのだという。
「悩んでる時にふと思い返したら、その前年の沖縄キャンプで僕は一軍だったんですが、新庄さんがアップ中の僕の走り方を見て、『糸井くん野手やれば?』って言ってくれたことがあって。そこに根拠があったのかは直接聞けてないので分からないですが、その言葉を思い出したんですよ」
ただ、野球を始めた時から投手としてマウンドに立ち続けてきたこともあり、率直な気持ちもここで吐露した。
「僕にとってはやっぱり、マウンドからの景色っていうのは特別でした。 誰よりも高いところに立つことができるんでね。ホンマに野球=ピッチャーと思ってずっとやってきたんで、野手になる時は最初は無理矢理納得してやってた印象でした」

“一年間の猶予”から球界を代表する外野手へ
06年から正式に外野手にコンバートされるが、ここからが「人生で一番努力した期間」と語る。後に身を結び、プロで19年もの間現役でプレーできる礎にもなった。
「球団からは猶予は一年だけと言われて『え?』って思ったんですが、今思うとそう言われてよかったです。仮に2,3年は見るってなるとまた甘えてしまったと思うんで」
打撃だけでなく、守備や走塁と投手だった時より何倍もの項目をこなした。ただ、最初は壁の連続だったという。
「二軍で初めて野手として出た試合も鮮明に覚えてます。二軍のピッチャーでしたけども、ど真ん中のスライダーで無理やと思いましたね。
『え?これどうやって打つの?』って。絶望でした。スピードだけじゃなくて、球の質とかも含めて。そんな中で打った内野安打も忘れないです。戸田でやったヤクルト戦で打ったのがスタートでした」
この安打から徐々に適応していき、08年には開幕スタメンを勝ち取るなど、63試合に出場を果たす。
09年からはレギュラーに定着すると同年に初の規定打席に到達し、打率.306・15本塁打・24盗塁をマーク。さらにゴールデングラブ賞を受賞しチームのリーグ優勝に貢献した。
以降NPB史上初となる6年連続で、3割・20盗塁、そしてゴールデングラブ賞を受賞するなど球界を代表する選手へとのし上がっていった。

大型トレードで突然の移籍も「勝負の魂を呼び起こしてくれた」
日本ハムでは野手転向後は中軸を担い、2度の優勝に貢献した糸井さん。しかし、その2度目の優勝に導いた12年オフにあの球史に残る移籍劇の当事者となる。
糸井さんは八木智哉投手とオリックスへ、そして日本ハムへは木佐貫洋投手・大引啓次選手・赤田将吾選手という2対3の大型トレードで移籍することとなった。
球団に呼ばれ、通告を受けた時は「自分が移籍するなんて頭になかったんで、ショックでした」と当時の正直な心境を吐露した。それでも、いざ新天地に行くと、チームの雰囲気は「(間を置いて)最高でした!」と笑顔で語った。

今季からオリックスで指揮を執っている岸田護監督も同級生。初年度のキャンプでも早速糸井さんを食事に誘うなど、溶け込める環境をつくってくれたのだという。
在籍した4年間ではさらにパフォーマンスを上げ、首位打者(14年)に盗塁王(16年)とついにタイトルも獲得。当初は抵抗もあった移籍だったが、「あのトレードが自分を成長させてくれたと僕は思いますね」と述べた。
「あのまま日本ハムにいたらマンネリ化ではないですが、コンスタントに3割・30盗塁できて、ホームランも2桁打てて心の底では満足もあったかもしれません。
でも、トレードをきっかけに『絶対日ハム戦5割ぐらい打ったる!』とか、勝負の魂をまた呼び起こしてくれたので、選手としてもう一段階上に行けました」
かつて入団を熱望した阪神に入り、今もSAとして活躍
そして、その後二度目の移籍を経験することになる。16年オフ、当時35歳でFA権を行使し阪神への入団を決断した。
当時指揮官だった金本知憲監督からの熱意に心が動いたのが理由だったが、京都出身の糸井さんは少年時代から阪神ファン。そして、プロ入りの際も実は阪神入りを熱望していたという。
「近畿大でしたし、ちょうど(大学4年の)2003年に優勝してましたから。実は日本シリーズも甲子園へ観に行っていましたよ(笑)」
22年に縦縞のユニフォームで現役を引退後、現在も阪神のスペシャルアンバサダー(SA)を務めている。SAとしてどんなことを行っているのか、「最近分かってきました」と自身の見解を話した。
「(監督の藤川)球児さん曰く、『SAなんだから教えに来なさいよ』ってことなんです」
藤川監督から直接メッセージも来るという糸井さん。甲子園で試合がある時は、自身も参加し試合前の練習時に助言を送っている。
「先日は(坂本)誠志郎や小幡(竜平)選手を見ました。デーゲームの日は朝7時半頃から室内練習場で打つんでね、その前から球場にいます。
あとは野球発展につながる活動ということで、女子野球やファームにも行くこともあります。秋山(拓巳)もそうですが、球団の肩書きがある人たちの役割になっていますね」

SAとしての活動に加えて、2月の春季キャンプでは沖縄・宜野座キャンプで臨時コーチも務めた。ここで最も注目されたのが、佐藤輝明選手への打撃指導。
近大の先輩後輩の間柄で、佐藤選手も学生時代に“糸井2世”の異名をとっていた。糸井さんはここで行った練習で、クリケットを使ったことが話題となっていた。その根拠など一部を明かしてくれた。
「彼は芯に当てれば飛ぶんですよ。なのでどう芯に当てるかということで、バットの面で打てるようにしたかったんです。
その面で打つには、クリケットのような板を使うといいなと。それを大谷(翔平)君もやってたんです。 それを見て『これいいな!』って思って持ってきましたね」
佐藤選手は打率.285で本塁打はリーグトップを独走の26本、打点66と2冠をひた走っている。(8月1日現在)
「打率もいいでしょう?ホームランも40本はもちろん、バースさん以来のホームラン王もですよ、十分可能性ありますよね」と後輩の活躍を誇らしく語ってくれた。
トークショー後は、サイン&撮影会も開催。ずっと憧れていたと言うファンも多くおり、短い時間ながら糸井さんとの会話も楽しんだ。

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