「やっぱり自分には野球がある」元ヤクルトスワローズ・宇佐美康広さん 始まった第二の人生と運命に導かれた野球との縁

元ヤクルトスワローズでプレーした宇佐美康広さんの全4回のインタビュー。

現在は埼玉県戸田市にある野球用品専門店「ロクハチ野球工房」を営む宇佐美さんだが、引退後は野球からは離れる決断をしていた。

第二の人生は別の世界でスタートしたが、運命に導かれるように再び野球への想いが湧いていく。第2回は引退後からロクハチ野球工房をオープンする前年までを追った。

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(取材 / 文:白石怜平)

引退後は広告代理店に就職するも1年で退職へ

00年シーズン終了後、ヤクルトから戦力外通告を受けた宇佐美さんはユニフォームを脱ぐことを決意した。

お世話になった方々にお礼の連絡をする中、その一人で現役時代から関わりのあった広告代理店の社長に請われ、第二の人生をスタートさせた。

宇佐美さんはヤクルトを退団する時=野球を辞める時だと決めていた。セカンドキャリアを送る際は野球からは離れようと考えていた。その意図を語った。

「当時25歳でずっと野球しかやってきていない身。世の中にどんな仕事があるのかもわからない。野球しかできない自分になりたくなかったですし、自分の可能性は他にもあるのではないかと思っていた。何の根拠もなかったんだけれども、そんな想いがあって飛び出しました」

社長らとともに働き始めたが、1年で離れることになった。宇佐美さんを招いてくれた社長が辞任することになったためである。

「社長がいなくなったら自分もいる意味がない」という”男気”から一緒に退職することになった。

引退後は一度野球の世界から離れた

約1年間”充電”し、不動産の営業職へ

退職後約1年ほど宇佐美さんは”充電期間”を設けた。この間はバーでアルバイトなどをしながら他業種の人脈をつくり、今後につながる出会いがあった。

「この1年の間で知り合った方がたくさんいて、今後について建築会社の社長に相談したら、『もし興味があるならウチで働きなよ』と言っていただいて、お世話になることにしました」

次に宇佐美さんが立ったフィールドは不動産の営業。飛び込み営業やテレアポなどをしながら地主さんのところを回った。

プロ野球、広告代理店に続きゼロからの挑戦となった。そこに対して抵抗や不安はなかったか。

「何事も楽をして上手くいくことはないと思うんですよね。電話営業や飛び込み営業も、野球で言うと素振りのようなものと考えていました。素振りもしない人がホームランやヒットは打てないですよね?

営業をやるには避けては通れないと思っていました。そこから逃げたら絶対ダメ。嫌な時もあったけど、頑張りましたよ」

次に飛び込んだのは不動産の営業で、14年間勤めた。

入社後は売り上げを右肩上がりに伸ばし、その活躍が評価されて3年目には課長へと昇進していた。最初は上司だった方を追い越し、自らの部下になっていた。

セールスやトークにおいて、宇佐美さんの強力なアドバンテージになるとも一見捉えられる”元プロ野球選手”の看板。これをあえて掲げることはしなかった。

「初めて言ったのはある時に商談をして契約いただいた時。『宇佐美さん何か昔やってたりしたんですか?』って聞かれたときに、言ったくらいです。

その方が、『プロ野球も経験して、今は営業でもしっかりやっているんだ』と逆に信頼してくれる。なのであえてこちらからは言わなかったです」

営業職は14年間続け、後述する現在の仕事にもつながる貴重な経験になった。

「やっぱり俺には野球がある」

営業として実績を積み、会社でも地位を築いていった中、宇佐美さんに再び野球との縁が徐々に交わっていった。宇佐美さんの子どもが小学3年生で野球を始めたことが一つのきっかけだった。

入団当初は自身が元プロであるため、周囲に気を遣わせないように配慮してあえて距離を置いていた。ただ、チームの首脳陣がそのまま放っておくはずがなかった。

「最初は『ノックを打ってくれませんか』から始まって(笑)。関わっていくうちに子どもたちはどんどん成長していくので、それを見て”やっぱり本腰入れてやりたいなぁ”と。

野球を嫌いになったわけじゃないので、始めるとやっぱり楽しいし、熱くもなってしまいますね」

ここで野球人・宇佐美康広が再び目を覚まそうとしていた

ここで野球人としての血が騒ぎ出した。ノックを打つところから始まったチームでは気づいたら監督になり、ユニフォームをしっかりと着こなしていた。

「自分が今までの知識や経験を還元していくと、喜んでくれる人がこんなにたくさんいるんだというのを初めて実感しましたね。

”やっぱ俺には野球があるんだな”と。そこで気づきがありました」

「もう一度野球で勝負したい」もうひとつのきっかけ

野球の神様が宇佐美さんを再び導くかのように、もうひとつ大きなきっかけがあった。それが当時所属していた会社が社会貢献活動として始めた「絆甲子園」。

絆甲子園は、被災地である東北のリトルシニア(中学生の硬式野球チーム)の選手たちに、野球を通じて多くの仲間がいることを知ってもらうために行われたイベント。

東北・関東エリアを対象に10チーム以上総勢約800人規模の選手が一堂に集まり、毎年8月の第一土曜・日曜に開催。東日本大震災のあった2011年に第一回が行われた。

ゲストには工藤公康さんや現役時代に二遊間を組んだこともある宮本慎也さんなど、球史に残るOBが復興そして野球の発展のために尽力した。

宇佐美さんは絆甲子園のプロジェクトリーダーを任命され、自らの人脈やプロ野球選手としての経験などを惜しみなく注いだ。

ここでも、自身が感じたことがあった。

「なおさら、自分にしかできないことってあるんだなと。それが野球なんだと思いました。野球を通じた活動で感動を与えたりするのは、自分にしかできない仕事なのではないかと思えたんです。

その頃からおもむろに”もう一回野球で勝負できないかな”という気持ちが徐々に湧いてきました」

不動産での営業で勤めながら、少年野球の監督そして絆甲子園の運営を行い、仕事と野球を両立する中である出来事が大きな転機となった。

つづく

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