柏原純一さんの見せた”悔しさ”に込められたものとは
嶋田さんが最初に目指した一軍の舞台、しかしこの当時昭和のパ・リーグはとにかく個性派揃いである。一人一人が野武士のような雰囲気を醸し出し、とても気軽に近寄れるような存在ではなかった。
自身が一軍に昇格した頃の日本ハムの選手たちも、当然ながら個性的な面々が揃っていた。
「富田(勝)さんがいて、高橋一三さん、あと捕手に”ドン”と呼ばれる加藤俊夫さんがいた。柏原(純一)さんもその中でも若いんだけど、あの強者たちに負けないぐらいすごい雰囲気を出して野球やってたから、『とんでもないところだな一軍は…』って思いましたよ(笑)」
特に多くの時間を過ごしたのが1歳上の田村藤夫さん、五十嵐信一さんだった。2人の野球に対する姿勢を間近で接しており、「野球に一生懸命打ち込む先輩がすぐ目の前にいた。環境って大事だとつくづく思ったね」と語る。
その”とんでもない先輩”の中で影響を受けた話も披露してくれた。
「柏原さんだね。凡打した時にものすごく悔しそうな顔をしてベンチに帰ってくる。もう近寄りがたい雰囲気を出してね。僕ら選手は以前コーチか誰かに『自分の一つのエラーや凡打で負けたら、最終的にみんなの給料にかかってくる』って言っていたんです。本当にそこまで考えて柏原さんはやっていたんだなってすごく勉強になりました」
もう一つの生き残る鍵になった先輩の言葉
一軍に上がるために、ファームで観察をしていた嶋田さん。「実はもう一つあるんです」と語った。
「バッティングで一軍に上がろうとしても厳しいというのが当時のチーム事情であったんです。当時僕が初めて一軍に上がったときも、同じように呼ばれたのはファームでもレギュラーになるかどうかぐらいの選手だったけれども守れる選手だった。ここに着目したんです」
自身も含めファームで昇格する選手を見ながら、一軍でどんな戦力が必要かは分析していた。「これは守備をしっかりやっておけば残れるかもしれない」と感じていた。そして、ある先輩のアドバイスからそれは確信になった。
「行澤(久隆)さんに『信敏、守備はしっかりやっておけ。あと走塁もやっておけは間違いなく割って入れる。7回とか早ければ6回からチームが勝っていれば出してもらえるから。
そのときに回ってきた1打席を大変だけれどもそこで結果を出せるように。仮に出せなくても投手に向かっていく姿を見せるんだぞ。それ本当に大事だからな』って言ってもらったのが大きかったです」
行澤さんは内野ならどこでも守れるユーティリティプレイヤーとして日本ハム、西武で計13年プレー。その後15年にわたり西武でコーチ、2010年から3年間は二軍監督を務めるなど、指導者としても長くユニフォームを着続けた。
「確か行澤さんも一度レギュラーを獲ったけれども、若手の台頭などでサブ的な立場になったと思うんです。今振り返ると、僕が通った道を先に通ってきたから言ってくれたのかなと。経験した人の言葉ってエビデンスがあるから伝わりますよね」
88年以降も出場試合を増やしていき、90年にはキャリアハイの113試合に出場。中堅のレギュラーとしてシーズンを全うした。
(つづく)
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