元近鉄バファローズの外野手で現在はアスリートのマネジメントやスポーツマーケティング事業などを行う「スポーツビズ」に勤める平江厳さん。
89年ドラフト5位で近鉄に入団し、96年までプレー。翌年メジャー挑戦するも夢破れユニフォームを脱いだ。引退後は野球界からは離れ、様々な職種を経験した後、再びスポーツの世界で活躍している。
今回、平江さんのこれまでの人生を3回に分けてお送りする。
(取材 / 文:白石怜平)
近鉄に入団して初のキャンプ「度肝を抜かれた」
平江さんは愛知・成章高から89年のドラフト5位で近鉄に入団した。
1位には8球団競合の末獲得した野茂英雄投手、3位に石井浩郎内野手(現:国土交通副大臣、復興副大臣、内閣府副大臣)と投打の主力となる選手が同期に当たる。
平江さんは、ファームからスタートすることになった。高校時代は強豪校がひしめく愛知県で通算打率4割越え、21本塁打を放つなど、将来のスラッガー候補として期待された。
ただ、実際に入った時の衝撃は今でも忘れられないという。
「春のキャンプから度肝を抜かれました。ピッチャーもバッターも見ていて今までと全然違った。やはりプロって凄いなと思いました。」
目標としていたプロの世界、朝から晩まで大好きな野球漬けの生活だったことに当初は喜びを感じていたが、早くも打ち砕かれた。体重も減っていき、
「元々は『これほど幸せな職業はない』と思って入ったのですが、職業にすることってこんなに厳しいんだと思い知らされましたね。」

間近で見ていた石井浩郎さんの姿勢
平江さんは、1日でも早く一軍へ上がろうと日々練習に励んでいた。そこでは、ある先輩の姿を追いかけていたという。
「同期入団の石井浩郎さんです。石井さんは1年目に病気を患ったり、怪我をされてファーム生活を送られていた時期があったのですが、その時は多くの時間を一緒に過ごさせて頂きました。石井さんを間近で見て、僕はその背中を追いかけていましたね。」
夜間練習まで行動を共にし、石井さんの練習量そして24時間野球と向き合っている姿勢に驚かされた。
「誰よりも練習されるし、誰よりも野球のことを考えてる。こういう方が一軍で活躍するんだなと。僕も自分で練習してると思ってたんですけども、比較したら量のレベルが違いました。
ヘトヘトになるまで夜間練習をやり、普通の選手はみんな寮に戻るのですが、石井さんはその後にも真っ暗な藤井寺球場で黙々とバットを振っていましたね。」
石井さんは現役時代、入団から5年連続20本以上をマークし、94年には打率.316・33本塁打・111打点で打点王のタイトルを獲得するなど、プロ野球の世界でも活躍した。
6年目で一軍デビュー。唯一の打席で感じた壁
プロ6年目の95年、ついに一軍の舞台に立つことになった。9月25日、千葉マリンスタジアム(現:ZOZOマリンスタジアム)で行われたロッテ戦。9回表に大村直之選手の代打で出場した。
「翌年を見越して、若手を見ようということで一軍に上げていただきました。なので、正直あまり実感もなかったのですが、実際に1打席立った時は、夢心地で何をどうしていいか分からなかったですね。」

相手は左のリリーフエースである河本育之投手。第一線で活躍する投手の球を目の当たりにし、またもや衝撃を受けた。
「プロに入ったときにすごいなと思ったのを、さらに6年かけて一軍に上がって、その一流ピッチャーを見たときにさらに衝撃を受けた。プロで6年やってまだ自分はここかと。感じたことのないような速さで、正直これでは厳しいなと思いましたね。」
平江さんにとって、これが一軍で唯一の出場機会になった。翌年もファームで過ごし、このオフに戦力外通告を受けた。しかし、平江さんの炎は燃え尽きていなかった。
「自分の気持ちに踏ん切りをつけたい」未知の挑戦へ
その後、3球団(阪神、横浜、西武)で入団テストを受けるも不合格に。実はその前からある一つの想いが溢れていた。メジャーリーグへの挑戦である。
しかし、当時メジャーの舞台で活躍していた日本人選手は同期入団の野茂投手だけという時代。その意図をこう語った。
「僕がメジャー挑戦したのは、自分の気持ちに踏ん切りをつけるためでした。成功したいともちろん思っていましたが、無理だとしても挑戦したことによって、他の選手たちがやってないことに自分が挑戦した証を残したかった。野球を辞めるんならそれを持って辞めようとアメリカへ渡ったんです。」
英語も喋れない中での挑戦。まずグラウンドに立つために伝手をたどった。最初に相談したのが立花龍司さん。
立花さんは、89年から93年まで近鉄でコンディショニングコーチを務めており、平江さんと同じチームに所属していた。
95年から2年間はロッテ、そして97年からはロッテ時代共にしたボビー・バレンタイン監督に請われる形でニューヨーク・メッツに移籍。コーチを担うことになっていた。
「立花さんの助言に沿って僕はバレンタイン監督に手紙を書きました。送り先は当時メッツの本拠地だったシェイスタジアム。
読んでもらえるのかは正直分からなかったですが、知り合いの英語の先生に、思いの丈を英語に訳してもらってエアメールで送ったんですよ。そしたらチームから電話がかかってきました。ウソみたいなホントの話です。」

電話の主はメッツの極東地区スカウト。幸い日本人であったため、遠投や50m走のタイムといった自らの情報を細かく伝えた。そこで実際に見てみたいということで、日本で入団テストを行うことになった。
立花さんの協力により、ロッテの室内練習場を借り一次テストを実施。合格し、アメリカへの挑戦権を得た。
平江さんはメッツのキャンプ地であるフロリダに入り、キャンプで入団テストを受けた。しかし、世界各国からアメリカンドリームを夢見て10代の選手も多くやって来る場。日本以上に競争が激しいことは容易に想像がついていた。
メッツのテストは残念ながら不合格となったが、すぐにマリナーズからオファーがあり、アリゾナへ飛んでマリナーズのテストを受けた。
しかし、ここでも不合格となりメジャー挑戦そして現役生活にピリオドを打った。これで自身の気持ちにも踏ん切りがつき、悔いなく完全燃焼した。
「プロ野球選手時代があって次の人生がある」
自らの現役生活を振り返った平江さん。プロ野球生活についてこう語った。
「10歳で野球を始め、小学校の卒業文集にプロ野球選手になりたいって書いているんですよ。子ども心に思っていても”絶対に行けるんだ”と思い続けてプロ野球選手になれた。
天職だと思ってやったものの7年間ダメで、終わった後に思う事は自分にとって天職ではなかったんだなと。僕の人生の中での一つのプロセス、プロ野球選手時代があっての次の人生だという一つのステップだったのだと思います」
メジャー挑戦を経てユニフォームを脱いだ平江さんには、新たな目標が芽生えていた。
(第2回へつづく)
【プロフィール】
平江厳(ひらえ・いわお)1971年7月26日、愛知県豊橋市出身。
愛知・成章高から1989年に近鉄バファローズにドラフト5位で入団。プロ6年目の95年に一軍デビュー。7年目の96年に戦力外通告を受け、97年には単身アメリカに渡った。メッツとマリナーズの入団テストを受けるも不合格となり、現役引退。
その後は野球界を離れ、様々な職種を経験。米国でのメーカー勤務を経て06年にスポーツビズに入社、現在に至る。
現役時代は外野手で、身長182 cm・体重90 kg、右投右打。
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