中村紀洋さん 「緻密な計算があってのフルスイング」近鉄時代につくりあげた打撃の裏側と抱いた覚悟

9月下旬、都内で中村紀洋さんのトークショーが開催された。

近鉄”いてまえ打線”の4番を務め、以降メジャー含め6球団を渡り歩いた浪速のスラッガーがプロで成り上がったエピソードから、指導者としての現在までを語った。

全2回のうちの1回目は近鉄で出会ったあの大先輩とのエピソードや代名詞のフルスイングの秘密などをお送りする。

(写真 / 文:白石怜平)

近鉄の大先輩とドジャースで再会。そこで驚いたこととは?

トークショーではまず、中村紀さんがプロ入りした当時の話題からスタート。91年のドラフト4位で近鉄バファローズに入団した時、あのパイオニアがエースとして君臨していた。

「僕が近鉄に​​入った時に野茂(英雄)さんがおられて、もう全国区でした。でも、あまり喋ったことはなかったんです。挨拶くらいはありましたけども、会話はゼロです」

そんな大先輩とメジャーの舞台で再会することになる。04年に特別参加したドジャースのスプリングキャンプで、一時的ではあるが野茂さんと同じチームで過ごした。

「ドジャースで一緒になった時に、”ノリちゃん”って呼ばれてびっくりしたんですよ。近鉄時代は会話ゼロですよ?それで『ノリちゃん飯行こう!』って誘ってもらってそれが初めての会話です。本当にびっくりしましたよ。まさかのノリちゃんですから(笑)」

野茂さんと会話した時の話が明らかになった

また、一緒に食事に行った際にさらに驚いたというエピソードも明かしてくれた。

「緊張しましたよ。さらに野茂さんは英語ペラペラなんですよ。みなさんにイメージがあったかは分からないですが、本人は英語を知らないフリしてるんですよ。マスコミの前では英語を話さないですから。

現地でメニュー見ても英語じゃないですか?僕は全く分からない中、野茂さんが全部教えてくれたんです」

「5年で勝負」腹を括って練習した日々

自身が競争相手となる野手では、当時から”いてまえ打線”のラインナップは充実していた。最初に見た選手を挙げると会場から思わず笑いがこぼれた。

「18歳で間近で見たのがブライアントですよ(笑)。さらに4番が石井浩郎さん。これはとてつもなく高い壁だなと。この2人に勝たないと一軍には出れないと思いながら、何か勝つ方法はないかをずっと考えていました」

打球を軽々とスタンドに運ぶ長距離打者たちを追い越すべく、常に考えながら打撃フォームをつくり上げていったという。

「豪快なスイングと言っていただいて”これがノリだ”と分かりやすいフォームになりましたけども、昔は全然違ったんですよ。足をあげたり、すり足にしたり試行錯誤を重ねてあの形になりました」

あの豪快なスイングは年月をかけてつくられた

高校を卒業してプロ入りした中村紀さん。この時からある覚悟を持って臨んでいた。

「プロ入って5年が勝負。23歳までに一軍で活躍していないとこの世界では終わりだなと自分で課したんです。自分の中で”5年でダメなら辞めよう”と腹を括っていた。そう思って死に物狂いで練習していましたね」

その言葉通り22歳の年(94年)に101試合に出場すると、翌年には20本塁打をマークするなど、いてまえ打線の若き主砲へと瞬く間に昇っていった。

以降、リーグそして日本を代表する右打者としてその地位を確立した。プロ通算404本のアーチを描き、本塁打王1回・打点王2回のタイトルも獲得し、名球会入りも果たしている。

中村紀さんの代名詞は豪快なフルスイング。当時の野球少年の多くが真似したであろうバットを放り投げるフォロースルーまで、しっかりと考え抜かれたものだった。

「フルスイングも緻密な計算があってのフルスイングですから。何でもかんでもするわけじゃないんです。『このケースでこのボールが来る』という確信があってできるんです。

僕はデータを毎日勉強しながら、当時も予告先発だったので前の対戦のことを思い出しながら何度も書くんですよ。そうすると打席の時に「この時はあの球を投げてくるんだ」とふと思い出す時があったんです。

勉強する時は昔書けば覚えると言われましたよね?やっぱり書かないとダメです。それによって大事な時に思い出すことへとつながりますから」

常に書きながらデータを整理していたという

FA時に一度変化した野球への考え方

01年にはリーグ優勝を経験。02年オフはFA宣言し、激動の期間を過ごした。巨人と阪神、そしてニューヨーク・メッツとメジャーリーグも交えた大争奪戦が繰り広げられ、報道は加熱する一方。

その時は野球に対する考えが変わってしまうほどであった。

「あのFAの時に人間不信になって、野球が”仕事”になったんです。そうなると、野球が本当に楽しくなくなるんですよ。

それまでは技術を上げて、『一本でも多くホームランを打とう』と純粋に考えてたのが、あのFAを機に、『何のために野球をやってるんだろう』と感じてしまったんです」

02年のFA時、野球が楽しいと思えなくなったという

悩んだ末に近鉄に残留し、04年にはアテネ五輪代表として00年のシドニー大会に続いて日の丸を背負った。

しかし、その04年に所属する近鉄とオリックス・ブルーウェーブとの合併問題に端を発した球界再編問題の影響で球団は吸収合併となり、近鉄球団は消滅することになった。

中村紀さんは、ここで正式にメジャーの舞台へと挑戦することになる。

(つづく)

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