清原和博氏 講演会「野球から学んだ奉仕の心」②栄光を掴んだ西武時代そしてプレッシャーと戦った巨人時代

2月20日、埼玉県さいたま市で清原和博氏の講演会が行われた。当時の栄光を知る聴講者の方々に、自らが野球を通じて培った数々の経験を語った。

前編では、野球との出会いからPL学園時代のエピソードについて紹介した。ここからは、あのドラフト会議から始まったプロ野球生活を振り返る。

>第1回はこちら

(写真 / 文:白石怜平)

西武入団時に立てた2つの目標

甲子園で通算13本塁打を放ち、高校でも通算64本塁打を放った清原氏は当然ながら、85年ドラフトの注目選手だった。

自らも巨人が希望球団の一つで相思相愛と思われていたが、当日巨人が1位指名したのは”KKコンビ”で共にチームを牽引した桑田真澄氏(現:巨人二軍監督)。清原氏は6球団競合の末、西武が交渉権を獲得した。

内定していた日本生命に進むか悩んだ末、西武入団を決断した。当時のチームメートとのやりとりを明かした。

「『一番最初にサイン書いたるわ』って言って、それで書いた西武の”武”の次が、西部警察の方の”部”で。今も持ってると思いますが、結構価値があると思います(笑)」

運命のドラフトについても振り返った

清原氏はプロ入り一年目からその実力を発揮した。126試合に出場し打率.305・31本塁打・78打点。この成績は高卒新人の最高記録として今も破られていない大記録である。

また、当時の西武は森祗晶監督の元、第2次黄金期を築こうとしている時だった。1年目から4番に座り、日本一の原動力になった。

翌年もリーグ制覇を果たし、ドラフトで因縁があった巨人と日本シリーズで相見える。王手をかけた第6戦の9回表2死になった時、一塁を守っていた清原氏は大粒の涙を流し、試合が中断した。

あの場面についての心境をファシリテーターの飯島智則氏(日刊スポーツ編集委員)が訊くと、清原氏は当時の心境を振り返った。

「ジャイアンツが三塁側ベンチでファーストからバッターを見ると、後ろにちょうど王(貞治:現ソフトバンク球団会長)さんが見えるんです。

僕がプロに入る時2つ目標を掲げたんですが、一つはジャイアンツを倒して日本一になること、あとおこがましかったのですが王さんの(本塁打記録)868本を抜くこと。その一つが叶う瞬間だったので感情が出てしまいましたね」

87年日本シリーズでの”涙の真相”を明かした

翌88年も日本一を果たし、さらに90年からリーグ5連覇を成し遂げた常勝西武。清原氏は4番を張り続けた。

自ら”チームの顔”と考える4番像。西武時代には不調の際、4番を外れることを森監督に直訴したこともあったという。

「4番を打つ責任感やプレッシャーに負けそうになり、監督室に言いに行ったら『キヨ、気にすんな。お前で打って勝った試合もあるんだから外さないよ』ってニヤっと笑っていましたね」

昭和末期から平成のパ・リーグの象徴だった清原さん。その間、球史に残る名勝負もたくさん生み出した。その中でもあの投手のエピソードを披露した。

「野茂(英雄:元近鉄他)君はドラフトで8球団競合して、『頼むからパ・リーグ来ないでくれ』と祈っていたんですが、まさかの近鉄というライバル球団で(笑)。

それで初三振が僕でしたから。野茂君とは対戦の度に楽しみで、フォーク投げれば三振するの分かっているのに首振ってストレートで来るんですよ。なので、フォークを打った記憶はほとんどないですね」

西武時代の思い出や平成の名勝負を笑顔で振り返った

また、伊良部秀輝投手(元ロッテ他)が当時日本最速の158km/hをマークした相手も清原氏だった。

「インハイに来たんですけど、新幹線が近くを通り過ぎていくような感じで当たったら命が危ないっていうのを感じましたね」

野球人生で初の逆境とも言える巨人時代

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