4月某日、都内で行われたトークショーにT-岡田さん(オリックス・バファローズ 球団アンバサダー)が登壇した。
プロ通算204本塁打をマークし、昨季限り19年間の現役生活に幕を下ろした“浪速のゴジラ“が東京に降臨。30人以上のファンと共に交流を楽しんだ。
(写真 / 文:白石怜平)
「浪速のゴジラ」のルーツとは?
引退後オリックスのアンバサダーに就任したT-岡田さん。活動の中心が関西であることから、関東のオリックスファンにとってまたとない機会になった。

アンバサダーとして球団行事へ足を運び、京セラドーム大阪で行われる少年野球大会で代表挨拶を行うなど、今も“オリックスの顔“を務めている。
また、解説にも挑戦するなど活躍の幅を広げ始めた。
「自分が関わりのない試合をたくさん見て、1試合1試合ではなく1球1球勉強しています。
他の方の解説を聞きながら、『こういう伝え方があるんだ』と日々気づかせてもらっています。
ここからT–岡田さんと野球との出会いから深ぼっていく。
野球を始めたのは小学3年生の時。ただ幼少時から体格は一際大きく、そのポテンシャルはすでに目に留まっていた。
「地元の少年野球チームを運営しているご夫婦がいて、周りと比べて体が大きかったのもあって小学1年生の時から声をかけられていました(笑)。
最初は土日遊びたかったので行かなかったですが、友達が行き始めてチームに入りましたね」
入団後は自然と野球の魅力に惹かれていったという少年時代。その体格からすでに長距離打者として頭角を現していた。今も地元で語り継がれている伝説を披露してくれた。
「中学生の時に硬式のボーイズリーグにいたのですが、同い年でのちに阪神に入った若竹(竜士)からホームランを打ったんです。
グラウンドのフェンスが高くて、ライトの先に高速道路があるのですが、その壁に当てました。
自分で言うのも何ですけれども語り継がれてるらしく、以降いないみたいです(笑)」

高校は地元の強豪・履正社高に進学すると1年夏から4番を打ち、高校通算55本塁打をマーク。
大阪桐蔭高で甲子園を沸かせた平田良介(元中日)・辻内崇伸(元巨人)、近大附高の鶴直人(元阪神)と「浪速の四天王」と呼ばれた。
加えて通算本塁打数や体格もあって、自身が「子どもの時から憧れの選手でした」と語る松井秀喜さんにちなんで、「浪速のゴジラ」とも称された。
そんな高校級スラッガーは、05年の高校生ドラフト1巡目でオリックスへと入団し、プロへの扉が開かれた。
「ミスター・ブルーウェーブ」の指導がきっかけに
未来の4番打者として、背番号も「55」を背負うことになり、1年目がスタートした。迎えた06年のキャンプ、当時は衝撃だらけだったと語る。
「入った時一番年上が吉井(理人:現ロッテ監督)さん、野手は清原(和博)さんと中村紀洋さん。テレビで見てた人たちばかりでキョトンとしてましたね(笑)」
球界を代表するスター選手たちを目にしただけでなく、打席に入るとプロの球にまた驚きを感じる日々だった。
「1年目のシートバッティング。スピードに『え?』と思って。ほとんど当たらないし、当たっても振り遅れのファール。
どうしようと思っていた中で、僕よりも小さい人が普通に飛ばしてたので、来るところ間違えたと思いましたね…」

06年に3試合出場して以降、一軍では2年間出場がなかった。しかし、一つの転機がこのオフに訪れた。
そのきっかけを与えたのは同じオリックスのスラッガー、”ミスター・ブルーウェーブ”だった。
「3年目(08年)の秋に藤井康雄さんがコーチとして戻られたのですが、その時に体の使い方を教えていただきました。
藤井さんと同じタイプだったみたいで、フェニックスリーグで試すと明らかに飛距離が変わったんですよね。そこからです」
09年は3年ぶりの一軍となる43試合に出場。8月14日のソフトバンク戦では待望のプロ初本塁打も放ち、いよいよ覚醒の10年を迎える。
「ノーステップ打法」で本塁打王に
この年は同姓の岡田彰布監督が就任したことをきっかけに、公募で新たな登録名が募集された。約7000通の応募の中から選ばれたのが今でも親しまれている「T-岡田」だった。

毎年変えているという打撃フォームで、特にこの年象徴的だったのがノーステップ打法。これはシーズン中に変更したものだった。
「5月の頭頃に札幌ドームで早出練習をしていたら、監督が来たんですよ。今まで来たことなんてなかったですし、ピリッとしました。
その時に『ワンバンばっか振るから、ノーステップで打ってみ』と言われたので、練習し始めたんです」
練習で打ち始めた後、試合ではどうすればいいか。コーチに相談したらそのまま打つよう指示が出たため、実践することになったのだという。
「すぐには掴めなかったですね。当てることはできるけど打球が飛ばないので、『これはホームラン打てないかもしれない』と最初思いましたね」

しかし継続していくうちに持ち前のパワーを合わさり、6月から本塁打量産体制に。
チームが交流戦を優勝したこともあってMVPを受賞すると、そのまま好調を維持する。
終わってみれば33本塁打でパ・リーグ本塁打王に輝き、22歳での本塁打王は王貞治さん以来48年ぶりとなる快挙だった。
「本塁打王が獲れるなんて全く考えていなかったです。ノーステップ打法も練習してるうちに、『こういう体の使い方したら飛ぶんや』と分かってきた。
やっぱり数をやらないと気づけないですし、身につかない。数をやる大切さを改めて実感しました」

日本一も達成し、「幸せな野球人生」に
その後も貴重な和製大砲として17年に31本塁打を放つなど活躍を続けた。
ベテランに差し掛かると、個人のタイトルに加えてチームにも勲章が加わった。現役生活で印象に残る出来事を問われると迷わず挙げた。
「(2021年に)初めて優勝した時は幸せでした。頑張ってきてよかったし、報われた甲斐がありました。
3連覇を達成しましたが、中嶋(聡)監督は『常に挑戦者の気持ちを持つ』と言っていたので、特に浮かれることもなかったです。先を見据えながら一戦一戦臨んでいましたね」

そして昨季限りでバットを置く決断をしたT-岡田さん。晩年の心境をこう語っている。
「年齢を重ねるにつれて、そういうもの(引退)ってある程度頭の中に入れて毎年シーズンを迎えるわけですよ。
なので、一瞬の出来事で決めたものではなかったですね。30代も過ぎるとそこを考えながらのプレーになるし、1年1年の勝負になります。そういう気持ちでやってました」

約1時間にわたるトークショーの最後、19年間のプロ野球生活をこのように総括した。
「いい時ばかりではなかったですけれども、たくさんの人たちに支えてもらった野球人生でした。そんな中でもリーグ優勝、そして日本一も味わえたことが本当に嬉しかったです。
安達(了一)と一緒に引退試合までさせてもらった。開催してもらえる選手って本当に一握りなので、本当に幸せな野球人生だったと思います。みなさんにただただ感謝です」
その後はサイン会を開催。本塁打王獲得時の懐かしいユニフォームを持参するファンもおり、現役生活をまた思い出すようにペンを走らせた。

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